ゆま

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5/15/2023, 12:09:52 PM


 あの時、君を助けたこと。
 その行動に一つも後悔なんてない。君の笑顔と、優しい歌と、光溢れる未来を守ることが出来たのだから。
 代償として流された血に、凍えるほどの痛みに、果てのない暗闇に突き落とされ、もう二度と戻れないとしても。
 
 涙を流し、悲しみに沈む君に。もう二度とこの手は届かない。その温もりに触れることも、共に歌うこともできない。
 君をひとりにして、泣かせてしまって、消せない傷を残してしまった。
 ごめん。ごめんね。
 言葉はもう音にならない。ただ風に流されて、君の髪を撫でるだけ。

 だけど、僕は信じてる。
 傷は癒える。君はきっと前を向ける。
 僕のことは、どうか忘れて。君はどうか、未来へ進んで。
 その幸せを、静かに、祈っている。

【後悔】

5/10/2023, 11:49:46 AM

 ひらひら、ふわふわ、遊び舞う。
 君はどこへいくのだろう。問いかけても当然返事はない。
 その奔放な自由を得るために、ひとり静かに耐え忍んだ。そんな日々のことなどすっかり忘れてしまったように。うららかな春の日差しに包まれて、花から花へ。渡り移ろう。
 気ままにゆく旅の先。進む季節の果て。君はまたひとり、静かに眠りにつく。
 ひらひら、ふわふわ、軽やかに。
 過ぎゆく時を憂うことはなく、やがてくる夜に怯えることはなく。羽ばたきはどこまでも可憐。
 短い春を朗らかに歌う。
 君をただ、眺めている。

【モンシロチョウ】

5/10/2023, 9:34:40 AM


 出会いは偶然。ふと、遠くへ行きたくなって。本来乗るべき方向とは真逆の電車に乗った。
 繰り返される日常に疲れていた。数字に追われるばかりの毎日に嫌気がさしていた。高速で過ぎ去っていく景色をぼんやり眺めて、追いかけてくる現実から目を逸らし、逃げる。
 そうしてたどり着いた、知らない街。
 駅を出る人は自分以外誰もない。閑散としたアーケード街をふらふら歩く。きっと昔はこの場所にも人が溢れ、笑顔と活気に満ちていたのだろう。今はただ、落書きに塗れたシャッターが無言で並んでいるだけ。吹き抜けた風にガタガタ揺れる音がやけに響いて、物悲しさを際立たせる。
 ……帰ろうか。
 とぼとぼと、背中を丸める。
 やるべきことを放ったらかしにしてまで、こんなところで気分を鬱屈させているのも馬鹿らしい。

 そうして踵を返そうとした時、真っ赤な色が目についた。
 商店街を抜けた先、場違いなほど鮮やかな色彩。軒先に出されていた暖簾がゆらゆらと風に揺れていた。
 なんとなく無視できなくて、吸い込まれるように歩く。近づいてみると、暖簾にはなんの文字も書かれていない。何かの店かと思ったが、看板のようなものも見当たらないし、勘違いかも知れない。と、思うと。木製の引き戸にぶら下る「商い中」の文字。

 少しだけ迷って、思い切って扉を開けた。
 こじんまりとした店内。どこか懐かしい風景が飛び込む。壁面にずらりとならぶ、味わいのある手書きのメニューでここが飲食店なのだと知る。5席分のカウンターとテーブルが
3つ。自分以外の人はいない。
「あら、いらっしゃい」
 厨房の奥からひょっこり、小さなお婆さんが姿を現した。「お客さんかい? 珍しいねえ」
 皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして、にこにこと微笑んでいる。
 まだ昼時には遠い。それほど腹は減っていなかったが、その笑顔を見たら何も頼まずに帰るわけにはいかない。とりあえずカウンター席について、据え置かれたメニュー表を眺めた。
 焼き肉定食、焼き魚定食……。定食系のメニューが多い。腹具合のせいもあり、なかなか決められない。眉間に皺を寄せつつ、メニューと睨み合っていると。
「今日のおすすめはね。オムライスだよ」
 奥からお婆さんが声をかけてくる。オムライス。素朴な店の雰囲気とは似つかわしい洋風メニューだが、よくみるとメニュー表に記載があった。
「じゃあ、それで」
 勧められるがまま答えると、お婆さんは満足げに「あいよ」とだけ言って、テキパキと調理をし始めた。
 
「おまちどうさま」
 しばらくして、お婆さんが料理を運んできた。
 薄く焼かれた卵の黄色と、ケチャップのコントラスト。添えられたパセリの緑が鮮やかな、昔ながらのオムライスだ。
 小洒落た洋食店の、トロトロの半熟卵のそれとは違う。シンプルかつ、オーソドックス。それゆえにあたたかく、ほっとする。
 思わず口元が綻んだ。昔、母が作ってくれたオムライスもこんな感じだったっけ。
「いただきます」
 一口。口元へ運ぶ。どこか懐かしいチキンライスの味わいを、しっとりとした卵が優しく包み込む。そこに、ケチャップの甘みと酸味が溶け合って。優しく、ほっとする味わいが広がる。
 一口、また一口。運ぶ手が止まらない。
 なせだろう。どうしてこんなにも美味しいのだろう。
 至って普通のオムライス。ありふれているし、なんら特別なことはない。だというのに。
 お婆さんが、穏やかに語る。
「昔はね。ここにも沢山の人が来て。このオムライスを美味しいって言って食べてくれたんだ。けど、今はすっかり人もいなくなって、この辺も廃れてしまったね。お客もめっきり減ってしまった。だけど、こんなふうに、幸せそうに食べてくれる人がいるのなら。あたしがここにいる意味もあるのかなって。そう思うさね」
 気付いたらとめどなく涙が溢れていて。あっという間に半分になったオムライスが、滲んで見えなくなった。スプーンを運ぶ手は止めずに、ぼろぼろ、ぼろぼろ。漫画みたいに涙が出てくる。
 優しい声が、染み渡る美味しさが、もうずっと連絡すらとっていない母親のことを思い出させた。在りし日の光景。食卓に並んだオムライス。思いっきり頬張る僕を、嬉しそうに見つめる笑顔。
 久しぶりに会いたくなった。無性に帰りたくなった。小さなテーブルを彩る、母の作った手料理。とりとめない会話と笑い声が行き交う、あの空間が恋しくなった。
 泣きじゃくる僕を、お婆さんはにこやかな笑顔で見守ってくれていた。今日初めて出会った、名前も知らないお婆さん。だというのに、ずっと前から知っているような。本当のお婆さんのような、不思議な安心感があった。

 それから、すぐ。しばらく仕事を休んで実家に帰った。暖かく出迎えてくれた母と、懐かしいオムライスが待っていてくれた。
 僕が僕のまま、僕らしく生きる。それだけで、こんなにも喜んでくれる人の存在を思い出せた。もう一度、生きる力を取り戻せた。

 数ヶ月の時が過ぎ、久しぶりに商店街に訪れた時。赤い暖簾はどこにも見つからなかった。街並みはそれほど変わっていないはずなのに、どうしてか、あの建物が見つからない。
 明るくない土地だ。道を間違えた可能性もある。地図をネットで調べようとして、店の名前を知らなかったことを思い出す。キーワードになりそうな、赤い暖簾で調べてみても。一件もヒットしない。
 ため息をついて。スマートフォンをポケットに戻した。店の名前くらい覚えておくべきだった。そんな後悔を抱くと同時に、あの日のことはもしかしたら夢か幻、そんな類のものだったのかもしれない。という考えが浮かんだ。
 あの日の偶然はまるで魔法のようだった。
 優しいオムライスと、お婆さんの柔らかな笑顔。現実に縛られて、がんじがらめだった僕に。泣くことを思い出させてくれた。大切なことを、帰るべき場所があることを教えてくれた。
 あの出来事が魔法だったとしても、そうでなかったとしても。僕の心に深く残る。消えることのない感謝の思いが、あの時間が確かに在った、なによりの証拠だ。

 お婆さんが今でもきっと、どこか別の場所で、誰かの笑顔を眺めていますように。そんな幸福を願いながら。
 またいつか、あの笑顔とオムライスの魔法に出会える日をひそやかな楽しみとして。
 僕は僕のこれからを続けていく。


【忘れられない、いつまでも】

5/8/2023, 2:47:56 PM



 灼熱の太陽が照りつける。
 容赦のない日差しに、流れる汗はとめどなく。
 アスファルトを蹴り付けるスニーカー。呼吸音は規則正しく、一定のリズムを繰り返す。
 僕は走る。ただ、ひたむきに。目指すひとつの未来に向けて。
 
 言葉を交わしたわけでもない。約束をしたわけでもない。
 ただ確信している。一年後、もう一度君と。
 
 軋む肺。疲労が鉛のようにのし掛かって、つい足が止まる。それでも。苦しさに折れそうになる心をスポーツドリンクと共に嚥下して。僕は再び走り出す。
 あの時わずかに届かなかった。その距離を埋めるために。  人知れず涙した。悔しさに報いるために。
 重ねてきた日々を嘘にはしない。
 君と競い、越える。そのために。

 先は長く、果ては見えない。目の前に伸びる険しい坂道をまっすぐに見据え。その日を目指して、僕は走る。


【一年後】

5/7/2023, 4:04:48 PM

 初恋はレモンの味。
 どこの誰がそんなことを言ったのだろう。
 爽やかで甘酸っぱくて、吹き抜ける初夏の風のような憧れを抱かせる。ずるい謳い文句。
 私は知っている。その甘さは"普通"の人だけが知れる味だ。

「先輩と付き合うことになったんだ」

 私の初恋は、親友のそんな言葉でもってはじまる前に終わってしまった。
 親友だから一番最初に伝えたくて。
 その言葉が嬉しくて。はにかんだその笑顔が無性に愛しくて。それが自分のものにならないことが、悲しくて、悔しくて。
 そうして気付いた。私の初恋。
 彼女は大親友で。どこに行くにも、何もするにも一緒だった。なんでも話せた。なんだって聞いた。彼女のためならどんなことでもしてあげたい。そう思っていた。
 私たちはずっと一緒にいるんだと、疑いもせずに思っていた。
 その想いは"普通"とは少しだけずれていた。

「おめでとう」

 言葉と笑顔を取り繕ったけど、うまくできていたかはわからない。

 少しずつ、離れていく距離。過ごすはずだった時間が、違う誰かに奪われて過ぎ去っていく。
 彼女が私と"同じ"だったら。きっと今も、そこにいたのは私だったはずなのに。

 苦い、苦い記憶。
 その味は今も少しも変わらない。
 一枚の招待状。二人は結婚するらしい。

 もしも、彼女が振られたら。そしたら私の元に帰ってくる。抱きしめて、慰めて。今度こそずっと一緒にいたい。
 そんな身勝手な期待は叶うことがないまま。煤けた想いは吐き出すことのないまま。

 "普通"から逸脱した私は、レモンの甘さを知らぬまま。
 苦味にずっと囚われて。想いをずっと秘めている。

【初恋の日】

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