信号
夜シフトの帰り道、霧に包まれて信号機が現れた。
広域農道の一本道で、どうしてこんな場所に……と訝りながら赤信号で停車したら、広がる田圃の右手からたくさんの狐火が渡ってくるのが見えた。
ぽっぽっと赤く灯った火が一列に並んで、車の前を横切って行く。
最後の火が渡りきると、信号機はふっと消え、代わりに立派な和装の男が立っていて、深々と頭を下げた。
私もフロントガラス越しに会釈を返し、静かに車を発進させた。
どうやら狐の嫁入りに遭遇してしまったらしい。
スマートに回避させてくれて助かった、今年は豊作だと良いな。
ページをめくる
本のページをめくる指が、長くて綺麗で。
まっ白いシャツの袖を一つだけ折り返した、手首が細く筋張ってて。
「……そこが良かったのよねぇ!」
と、母の初恋談。
知的な感じの優男さんが好みだったようです。
でもなぜか、父は強面で丸い。
夏の忘れ物を探しに
帽子を失くしたのです。
気に入っていたのに、まだまだ一緒にお出掛けしたかったのに、どこで忘れたんだろう?
海かな、山かな、公園かな、道の駅かな……夏のアルバム画像を辿って、帽子の行方を探します。
不思議なことに、画像の私はいつも日傘を差していて帽子の姿が一つもない。
どうして?あんなにずっと被っていたのに?
困惑する私を置いて、帽子の思い出は「もう帰らないよー」と初秋の空へ消えてゆきます。
8月31日、午後5時
帰りたくないなあと君が言って、今日がずっと続けば良いのにねと僕が言った。
8月最後の日、トンボの行き交う野道をヒグラシの声を聴きながら二人で歩いた。
ふと腕時計を見ると、デジタルの表示は午後4時61分。
君が黙って差し出した、スマホの時刻も4時61分。
僕らは顔を見合せ、声を出さずにくすくす笑う。
このまま行ける所まで、手を繋いで歩こうよ。
きっと忘れない
カレンダーに記された、覚えのない赤マル。
この日何かあるの?と夫に聞いたら知らない、書いてないと言う。
「ボーッとして自分で書いたんじゃない?」
夫は笑うけれど、確かにいつもボーッとしてるけど、これは本当に覚えがない。
でも私が書いたのかな……。
忘れちゃいけないことだったのかな。
誰かとの約束、それとも何かの決まりごと、いつかの記念日、ぽつんと付いた赤マルは知られたくない秘密の暗号のようで。
長く生きてきたから、大切なことも思い出も過去も増えすぎて、ふっと分からなくなってしまう。
「ああそれ、こっちの友達と会う日だわ」
週末帰省した長男が、あっさり白状した。
普段居ないくせになんで実家のカレンダーに書くのよ、ややこしいー!ときつく抗議しておいた。