#奇跡をもう一度
「お前が下ノ村の弥助か」
…左様でございます、お殿様。
「下ノ村が鬼に襲われた時、お前だけが幸運にも生き残ったそうだな」
…左様でございます、お殿様。
「そして逃げ込んだ上ノ村も、先日鬼に襲われ、またしてもお前だけが生き延びたのだな」
…はい、左様でございますお殿様。
「一度目は奇跡、だが二度目の奇跡などあり得ぬと儂は思う。
もはや村を襲った鬼とは、お前自身であることは自明の理。
正体を見せよ、この鬼め!」
ギラリと刀を抜かれ、弥助は目を白黒させる。
二度はないと言われても、あるものはあるのだ。
どう言えば分かってもらえるのか、
ダラダラと汗を流しながら、絶体絶命の弥助は三度目の奇跡を願った。
#たそがれ
もう10月か…と思いながらアプリを開くと、お題が「たそがれ」だった。
「10月」「たそがれ」とくれば、これはもうレイ・ブラッドベリの『10月はたそがれの国』しかない。
そう言えば、あの本はどこにやったっけ。
SFの抒情詩人とか言われるブラッドベリは、好きと言うより、ふと読みたくなると代わりが効かない作家だ。
どうしても『10月はたそがれの国』を読み返したくなり、私はお題そっちのけで、古い本棚を漁り始めた。
結論から言うと、本は見つからなかった。
それどころか、まだ読んでさえいなかったことが判明した。
彼の作品をたくさん集めていたのは高校生の頃だが、なぜこの有名な初期短編集だけスルーしていたのだろう。
というか、なぜ今の今まで持っていると思い込んでいたのだろう。
不思議だけれど、今になって“新作”を読めるのは嬉しい。
私はいそいそと『10月はたそがれの国』をネット購入した。
#きっと明日も
ロンドンに住む名付け親の叔母が、誕生日に魔法のスプーンを贈ってくれた。
添えられたカードには、これで紅茶をかき混ぜるとその日スプーン一杯分の幸運が受け取れます、とある。
私は小さなティースプーンをしげしげ眺め、これじゃ数滴しか入らないな…と思った。
「そうなのよ」
お礼の電話をかけると、叔母は申し訳なさそうに言った。
「幸運のボウルも幸運のカップも売り切れちゃって、スプーンしか残ってなかったの。でもね…」
ショップの店主によると、幸運シリーズに込められた魔法はどれも同じ分量だから、小さければそれだけ長持ちするという。
「だからリサちゃん、あなた多分一生幸運が続くわよ!」
というわけで、私は毎朝そのスプーンで紅茶をかき混ぜている。
ささやかすぎて、それがスプーンの幸運なのか分からないこともあるし、確かにそうだと感じる時もある。
でも明日どんな嫌なことがあっても、きっとスプーン一杯分の幸せはあるはずだ。
#静寂に包まれた部屋
京都で染色会社を営んでいた祖父は、多趣味な人だった。
特に書道と俳句に熱心で、実権を伯父たちに譲ってからは、趣味三昧の生活だったようだ。
京都の古い家は細い路地に狭い玄関があり、奥に驚くほど広い敷地が広がっている。
祖父の部屋はその一番奥の、裏庭に面した場所にあった。
子供嫌いの怖い人だったし、大人たちから
「お祖父ちゃんの邪魔をしてはダメ」
と言い聞かされていたので、孫の誰も近づかなかったが私は例外だった。
その頃私には秘密の世界があって、誰にも邪魔されないよう、祖父の部屋の縁側をこっそり自分の場所にしていたのだ。
文机の前で祖父は時間をかけて墨を磨り、子供に読めない文字を書く。
私は縁側に座り、自分で作った物語の絵を好きなだけノートに書く。
祖父は私に気づいても、そこに居ないように振る舞っていた。
廊下を隔てただけのはずの、母達の声や従兄弟の走り回る音がなぜかとても遠くに聞こえ、不思議に静かだった。
あのピンと張りつめた静寂は、祖父が作り出していたのだろう。
#通り雨
通り雨に降られて、立ち寄る予定のなかった小さなお寺に逃げ込んだ。
レンタル自転車を停めて中に入ると、狭い畳の部屋に古い古い仏様。
火災で酷く損傷したというお姿は黒く大きく、あちこち補修されて少し歪だ。
雨のせいかそれともあまり人気がないのか、他に参拝者もおらず仏様と私の二人きり。
向い合わせで話すみたいに、間近に座って傷のあるお顔を眺めていると、悠久の時に呑み込まれたような、とても静かな気持ちになる。
通り雨のおかげで、素敵な仏様に出会えてしまった。
ここに1400年も動かず鎮座しているという日本最古の仏像、奈良の飛鳥大仏。
また来ますね…とご挨拶して、雨の上がった外に出た。