やさしい嘘
私は嘘をつけない体質だ。小さな嘘をついたとき、親に「嘘ついただろ、鼻の周りが白くなってる」と言われて以来、トラウマになっている。
どうも、嘘をついたことで血の気が引くと、鼻や唇の周りが白くなってしまうらしい。血の気が引くところが小心者なのだが、親の前では非常に緊張していたから、嘘を付くなんて自分にとっては一大イベントだったのだ。
さて、そんな私が嘘をついたのは大学の時。通信教育だったので、1つ上の従姉妹のアパートに、スクーリングの期間中居候させてもらっていた。
実家で押さえつけられて暮らしていたので、その期間だけが唯一私の青春だった。彼女とお風呂屋さんに行ったり、大学同士が近かったので、待ち合わせてどっちかの学食でランチをしたり、彼女のゼミの飲み会に参加させてもらったり。
その朝、アルバイトの合間を縫って、従姉妹が実家に帰る日だった。「葉月ちゃん、行ってくるね」と言う彼女に、私は手を振って「行ってらっしゃい」と見送った。
朝から身体がだるく、高熱が出ている自覚があった。実は、スクーリングに出発する数日前、小学生だった弟が風疹にかかった。私は20才になっていたのでまさかと思っていたが、感染していたのだ。
だけど、東北の実家に帰るのに、彼女は、切符を取り、地元での予定を入れ、親への土産を買ってある。病気のことを言ったら、やさしい彼女は、帰郷を取りやめるかも知れない。
嘘をついたワケではないが、何も言わないことが嘘だったと思う。言わないから、鼻の周りも白くならなかった(笑)
彼女が帰ってくるまでの間、たいへんだったのだが、それはまたの機会に。
瞳をとじて
瞳(瞳孔)の開閉は、自分では出来ない。不随意筋だからだ。脳からの指令で、眩しかったら閉じるし、暗いところでは開く。そして、死んでしまった人の瞳孔は開いてしまう。
だから、言うなら「瞼をとじて」なんだが、「瞳」という響きがきれいなのと、字面も良いので、いろいろな楽曲で使われてきた。
響きや字面は、やはり良いほうが良い。
でも、でも、だ!
そういった歌詞を観たり聴いたりするにつけ、毎回ギョッとしてしまう。
同じようなところで「食べれる」みたいな動詞の表現も、ちと違う。ら抜き表現というヤツだ。いまではほぼ市民権を得てしまい、アナウンサーでも使う人が居るし、歌にも使わている。拘っている私が、頭が硬いのだろう。歳だからな。言葉って、長いスパンで見ると変わってきているからね。
でも、どれも楽曲として立派に成立しているいい歌だし、気にしないで聴いていたら良いんだね。
あなたへの贈り物
あなたへの贈り物を何にしようかと、非常に長い時間考え、非常に長い時間迷い、これにしました。
お気に召したら嬉しいですし、お気に召さなかったら、私がお目にかかる時にそれの行方は聞きませんので、よろしくお願いします。
ただ、私がどれほどの気持ちでこれを選んだかだけは、お察しください。
これからも、よろしくお願いいたします。
・・・なんて手紙が添えてあったら、怖いかな嬉しいかな、相手によるかな(笑)
羅針盤
大海原を行くときは、どこを見渡しても海ばかりで右も左も分からない。羅針盤無しでの航海は自殺行為だ。
人生の羅針盤はなんだろう?人生うん十年、それこそ右も左も分からず漕ぎ続けて、ここまで来てしまった。
結婚前は、あんな親でも教わることもあったのだろう。暗い青春時代だったけど、道を踏み外すことは無く、無事に成人して仕事に就いて、結婚した。
結婚してからは、それまでの人生で身につけてきたモノで生きてきた。言うなれば、自分の経験値が羅針盤?
幸い良い友達も何人か出来て、その人達とは続いてきたので、常識を外すこともなく、嫌われない人格を形成できたのだ。
自惚れているのではない。結局、人間同士だから生きてきた環境も考え方も違う。そのすり合わせで結婚も友情も続いていく。「価値観が合う」というのが、ぴったりくる言葉かな。
その価値観が、今までの経験値から導き出されている物だから、やはりそれが私の羅針盤になっていると思うのだ。
明日に向かって歩く、でも
終わったことは振り返らない。いつも、明日に向かって歩く私。
そりゃ、反省はしますが、考えてもしたがない、つまりやっちまったことはあまり考えない。こーなるかな、あーなるかなと考えても、答えは出ないのだから、深みにはまるばかりだ。後ろは振り返らない。前を向いて進む。
はずだった。でも、前が見えない時もあった。前を向いてもなにも見えない。さぁどうする?!
そんなときはくるりと180度回って、うしろ、つまり来し方をじっくり眺める。振り返れば、そっちが前だ。そっちが明日だ!(屁理屈)
思い悩むのではなく、一つ一つの事象を反芻する。そしてまた振り返って明日に向かう。方向音痴の私は、そこでもうどっちを向いているか分からなくなりそうだが、明日に向かってとにかく歩く!