愛を注いで
「あんたは、私が厳しく育てたから、自分の子どもに甘いのね」
「甘いんじゃない。『優しく』してるの」
この母に優しくされたことは無い。抱きしめられたり褒められたことが皆無なのだ。それが子ども心にどれだけ寂しいことか。それどころか、傷つく言葉をたくさん投げつけられた。DVだった父の方がまだ、機嫌が良ければひざに乗せて一緒にテレビを観たり、みかんを剥いてくれたりしたものだ。機嫌が良ければ、だが。
母は、赤ん坊の時に父親が死んでしまい、祖母に女手ひとつで育てられた。あの時代に女性が仕事を持つのはたいへんだったろうに、夫がやっていた仕出し屋を継いで、祖母は必死で働いた。母は、お手伝いさんと近所の老夫婦に育てられたようなものだと、時々言っていた。充分に可愛がってもらったが、それでも寂しかったようだ。
母親の愛情を知らずに育った母に、私は育てられた。その私も、母の愛を感じられずに育った。母だって、母として愛を注いだつもりなのだろうが、伝わらなかった。愛情表現が出来なかったのだろう。それで私も愛情表現が下手だ。
だから私は、子どもたちにたっぷり愛を注いで育てている。抱っこやハグもするし褒めるし、叱るところは叱るが、なにしろ可愛かった。子どもたちが可愛くて可愛くて、愛を注いできたと思う。つまりはこれだと思う。意識しなくても、自然にあふれ出るのが愛情だ。
心と心
心はどこにあるの?と、子どもに聞かれたことがある。
胸に手を当ててよく考えなさい。と、親に言われたことがある。
人は脳で考えるんだ。と、理科の先生に教えてもらった。
さて、本当に心はどこにあるのだろう。頭(脳)でモノを考えるのは分かっているが、心となると分からなくなる。私の心は、どこで悲しんだり喜んだりしているのだろう。
阿刀田高先生だったか、星新一先生だったか忘れたけど、短い物語があった。人の脳だけ取り出して、ガラスのケースに入れられて生かされている。そんなケースが部屋いっぱいにある。私たちの人生のいろいろな経験は、実際のことではなく、すべて各々の脳が想像し、経験したと思わされている。という、ある意味恐ろしい話だった。
仲間たちとの交友も、結婚出産子育ても、みんな想像???そうすると、心と心を通わせたと思っていた人とのこともそうじゃなかったの?これはなんとも、ある意味、ではなくて本当に恐ろしい話だ。
何でもないフリ
そりゃ俺だって傷つくことはあるよ。言いたいこと言ってるけど、他の人に言ったら名誉毀損だからな。
そう思いながら、俺は何でもないフリをして、笑って受け流している。
「イヤなら辞めても良いんだぞ」なんて、毎日言われている。
「まったくお前はトロいなぁ」
「お前なんか転職しても使い物にならないから、またすぐ辞めることになるぞ」
「結婚出来ないでずっと一人モンなんだから、残業ぐらいいいだろう。残業させてやるよ」
でも、サービス残業なんだ。
こうして毎日言われていると、本当に俺ってトロくて無能なんだと、思ってしまいそうになる。でも、悪しざまに言うのはその上司だけだ。他の人に迷惑はかけていないつもりだ。与えられた仕事はちゃんとこなしている。
今は何でもないフリをしているが、いつか大爆発を起こしてやる。その時になって後悔しても知らねぇぞ!
仲間
結婚するまで、仲間らしい仲間は居なかった。学生時代は親に行動を制限されていたし、職に就いて数年で父が倒れ、生活のためにダブルワークしていたし、友だちも居なかった。
それが、結婚してから子どもが生まれて公園仲間が出来た。子どもの学校で、PTA仲間が出来た。その人たちとは、いまも時々会って話す。
子どもの手が離れてから、自治会やNPO法人で活動するようになり、さらに仲間が出来た。みんなでああしよう、こうしようと、いろいろ話し合うのも面白いし刺激になる。多少疲れても、走り回るのが楽しい。
今が私の、遅く来た青春なのだとつくづく思う。
手を繋いで
うちによく来ていた大工さんがいた。古いお付き合いで、ご近所だったし、お互いの家にお茶を飲みに行ったり来たりの仲だった。義母が生きていた頃は、その流れで「裏の雨樋が外れかけてるの」などと言うと、さっそく来て直してくれたりしていて重宝だった。その代わり、季節の果物や、到来物のお菓子を持って行ったりして、良い関係だったと思う。
その人が癌になり、奥様も他界して、お茶の行き来が少なくなったある日、ちょっと買い物に出たら、その大工さんが道端で立ち止まっていた。
「◯◯さん、どうしたの?」
「体のためと思って、毎日散歩してるんだけど、なんだか疲れちゃってさ、足が前に出ないんだよ」
「あら、そんなら、私がお宅まで送るよ。掴まって!」
私が手を差し出すと、はじめは照れたのか「いいよぉ」と言っていたが、その手を引っ張って立ち上がらせると、そのまま手を繋いだ。
そこから大工さんの家まで、せいぜい100mぐらいだったと思うが、ひどく時間がかかった。足元がおぼつかなく、よろけるのを支えながら家に辿り着いた。
「いやぁ助かったよ。ありがとうよ」
「いいよ。また手を繋いで散歩に付き合うよ」
「あはは、そうかい?頼むよ」
帰り道、私は肩や腕に痛みを覚えた。大工さんは相当な力でしがみついていたらしく、それを支えて歩いて、筋肉痛になったらしい。
彼は、それから数ヶ月後に亡くなった。2回目に手を繋ぐ機会はなかった。