メッセージボトル。
寄せては返す波打ち際。表面を傷だらけにして、一房の海藻に絡みつかれたそれは、色を濃くした砂の上にただ横たわっていた。
冬の海には人の気配がない。人どころか砂浜に打ち上げられたクラゲも、潮溜まりに置いていかれた小魚も見つけることができない。
酷くうらぶれていて、寂しさに冷たくなった砂粒が裸足の指の間に纏わりつく。
足を上げれば纏わりついた冷たい砂がサラサラと零れ落ちる。そのままメッセージボトルの横に着地させると海水で重くなった泥が爪の間にまで入り込んだ。
冷たさと気持ち悪さに息を詰める。
白く崩れた波がメッセージボトルと足首を掴んで、何も捉えずに去っていく。その繰り返し。
誰が、いつ。打ち上げられたボトルの表面からそれを窺い知ることはできない。
拾おうと伸ばした手は、けれどもボトルに届く前に一際大きな波によって濡れてしまう。
拾われるのを拒むようなそれに、自分宛のものではないのだと手を引いた。
ふとポケットに入れていたスマートフォンが震えて、その存在を主張する。
濡れた手のままズボンのポケットを弄って、電源を落とすこともできず、マナーモードにしたそれを取り出す。
誰が、いつ、私宛に送ったのか。とっくの昔に通知数が上限に達したメッセージアプリを開けば、それが一目で分かる一覧が表示される。
一番上の通知が一件と表示されているそこを迷わずにタップした。
今さっき送られてきたメッセージを碌に読まずに、ただ「海」とだけ送信する。それから少し考えてメッセージボトルの写真を添付した。
絡みついた海藻は気づけば波に攫われていた。
すぐによくわからないスタンプが送信されてきて、それにふっと笑いが溢れる。
相変わらず溜まったままの通知をそのままにアプリを閉じて、スマホをポケットへと仕舞う。
手が濡れるのに構わずボトルに手を伸ばした。そのまま大きく振りかぶって、勢いのまま海に向かって放る。
ボチャンと間抜けな音が鳴って、すぐに波間に浮かび上がったそれが引き潮に連れ去られていく。
目を眇めても見えなくなるほど遠くに流れていくのを見送って、それから踵を返した。
靴を脱いだ所までサクサクと砂を踏み締めて歩いていく。
濡れた足に張り付いた砂ごと泥を払って、靴下を抜いた靴に素足を滑り込ました。
横に置いていたリュックを背負って、迷った末に靴下をスマホの入っていない方のポケットに詰め込む。
粘ついた潮風を浴びながら砂に埋もれた石階段を登って、振り返りもせずにバス停へと向かう。
次の便の時間を確認して、誰もいないベンチに腰掛けた。
リュックに凭れ掛かるようにして目を閉じる。思考は海に頼りなく浮かんだメッセージボトルへと馳せられる。
固く閉ざされたボトルに閉じ込められたその中身を。
寄る辺なく漂うそれが拾われる日を。
メッセージを受け取る誰かを。
バスのエンジン音が聞こえるその瞬間まで、眠りもせずにじっと考えていた。
マグカップが割れた。日常の中のささくれみたいな出来事だ。
「なに? どうしたの?」
マグカップの断末魔を聞きつけた彼女が台所へと顔を出す。
キッチンは緑色のマグカップの破片とココアの粉が広がりまさに惨状だ。
驚いた彼女が近づいてくるのを手で制し、そのまま両手を合わせる。自然、声が落ち込む。
「ごめん、お揃いの割っちゃった」
「怪我は?」
心配そうな表情に大丈夫だよ、とひらひらと手を振れば、彼女はほっとしたように口元を緩ませた。
掃除機取ってくる、とキッチンから出ていった背に微かに落胆する。
彼女の目の中のどこにも悲しみを見つけられなかった。
数年前から世界で流行り始めた謎の奇病はただ人から感情を奪っていくというものだ。致死率は低く、ウイルス感染もしないそれは初めのうちは危険視もされず、故に発見も研究も何もかもが遅れた。WHOが声明を出す頃には、人口の四割がこの病に侵されていると連日ニュース番組が報道していた。
それから一年経った今も治療方法はない。有病率は五割を超えた。
気の狂った人間はこれを人類の進化だと声高に叫ぶ。書店には完全に感情をなくした人が幸せを綴るエッセイが多く並ぶようになった。
見掛ける度に、幸せを感じることもできないくせに何が幸せだ。という怒りと、もはや幸せの形すら変化しているのかもしれない。という焦りに似た悲しみが浮かんでくる。
だってもう道行く人の半数以上は感情を失い始めている。笑って、泣いて、怒って、喜ぶ。私のような人間のほうが最早少数派だ。
彼女は悲しみを失った。少なくともこの半年以上、私は彼女の涙を見ていない。
好きな芸人の漫才で笑う彼女は、タイタニックが沈んでも泣かない。毎年夏に放送する戦時下を生きた兄妹の映画を無表情に眺め、ティッシュで鼻をかむ私を時々不思議そうに見るだけ。
可愛がっていたペットの猫の死に目を腫らすまで泣いていた愛猫家の彼女は、アパートの前で死んでいた野良猫に対して眉を顰めるだけで興味をなくす。
涙を流さないというのは幸せなことなのかもしれない。隣で彼女を見つめ続けていると、ふとそんな考えが過ることがある。本当に不本意ではあるがあのエッセイ達は真実なのかもしれないと。
それでも私は二人分の鼻を啜る音を聞きながら映画を見たいし、野良猫の死に悲しみと怒りを露わにする彼女の背を撫でていたかった。
二人で暮らし始めたときに揃いで買ったマグカップ。沢山飲むからと大き目にしたそれで作るココアは少し薄い。
もう二人であの薄いココアを飲むことはできないのだと思うと無性に悲しくなった。甘ったるい匂いが鼻の奥を刺激して、涙がじわじわと目の表面を覆いだす。
もう元の形に戻ることのない緑の破片をキッチンペーパー片手に集めていると、掃除機を持ってきた彼女が戻って来る。
目元を擦る訳にもいかず、かといって涙を止める術を知らないから表面張力の限界に達したそれが頬を伝う。
「ごめん、割っちゃった」
滲んだ視界の中で緑とココアが混ざりぐちゃぐちゃになる。床に蹲るようにしていると、温かな手が背中を撫でた。
「またお揃いの買おうよ」
次はもっと大きいのにしよう、薄いココア結構好きなんだよね、と笑う彼女に力が抜ける。多分ここ半年無意識に持ち続けていた強張りが解けていく。
ずっと彼女が遠い存在になってしまったと思っていた。隣で何を見てももう視線が交わることはないのだと決めつけていた。
けれども彼女は映画で泣くわたしにティッシュを差し出すし、落ち込む私の背を撫でる。薄いココアが特別だと笑う。
「そうだね」
これが私達の新しい幸せなのかもしれない。そう思えるのが嬉しかった。
秋風に攫われて君がいなくなってしまった。
眠りにつく前に
あなたは眠りにつく前になにを思っているのだろうか。
外側の私が読み取るのはもうだいぶ難しい。そもそもわかっていたときなんてなかったのかもしれない。
危ないからやめてと言っても山を歩いていた足も、今は掛け布団の下から出てくることはない。
少し面倒だと思ってしまうほど回る口は、話が喉に詰まってしまって閉じられてしまう。私はあまり話すのが得意でないから、以前みたいにお喋りができない。
話しかければ反応してくれる。テレビをつければ内容を軽く理解しているようにも見える。軽く手を叩けば叩き返してくれる。
けれど数時間前のことを思い出すのは難しいらしい。頭の中に発生する靄が記憶に絡まって繋ぎ目がばらばらになってしまうだろうか。いつか私の顔もその靄に包まれてしまう日が来るのだろうか。
いつまでも、いつまでも元気なのだと思っていた。私が何歳になってもずっとそこに居てくれる人だと思っていた。
私は今でも細くなってしまったあなたを受け入れられていない。
数年後には山を歩いて畑を耕し、あのときは大変だったと私に話して聞かせるのだと、どこかで疑いもなく信じている。
振り返れば後悔ばかりが降り積もっている。私はずっと良い人間じゃなかった。
あなたが私を会うと喜んでくれているように見えることだけが救いです。
どうか、どうかあなたが眠りにつく日がずっとずっと遠くの先でありますように。
あなたの夢が目覚めている間に叶いますように。
幸せな夢が見られますように。
始まりはいつも