今日も昨日も、窓の外、ずっとつづく海は灰色をしている。ぼくのベッドからは、ずうっとそれしかみえない。ずっと広がっていく、どこまでいっても終わりのない、大きな大きな水のかたまり。たまに表面が波立つだけで、深いところは、何千年も動かないらしい。暗くて冷たくて、じっとそこから動かない。悪魔とか、怨霊とか、そういう恐ろしいものみたいだ。ざあざあと途切れずに聞こえる波の音は、その悪魔の呼吸なんだ。悪魔の寝息は、ぼくの頭に入り込んでしみこんで、眠れやしない。ぼくの動かない足を怨霊がつかんで、その深いところへ引きずりこもうとする。
その日の海は大荒れだった。でも、波の音が少し大きいくらい、気にしていられなかった。僕は自分のつま先を、じっと見つめてばかりいた。海の深層は、何千年かかけてようやく地球を一周するらしい。それなら、人が生まれて死ぬまでに、海はほんの少ししか動かないのだ。波なんてものは、うわべだけの騒ぎに過ぎないのだ。そして僕は、そんな海よりももっと、動けないのだ。
ある日ーーさあっと雲が晴れて、スポットライトがそのひとを照らした。青い海は、きらきらと光った。差し込む日ざしで頬が熱くなった。日焼けしたそのひとの首を、一滴の汗が伝っていった。
真っ白な砂浜を、それよりもっと生白い僕の足が踏み締める。不思議な感触だった。ちくちく熱くて、二歩目を踏み出すと、僕はもう止まれなかった。日焼けした手が僕を強く引く。転びそうになるたびに、その手はしっかりと支えてくれる。
白い泡を踏んだ。透明な水を踏んだ。柔らかい砂を踏んだ。そのたびに水しぶきがふくらはぎにかかって冷たい。もっと沖のほうへ行きたい。水をふくんだ柔らかい砂地をふみしめて、僕はどんどん水に入っていく。水着がどんどん重くなって、肌にはりつく。べたつく塩水も、なんだか心地いい。そのうち水が首のあたりまで来て、こわくなって足をとめた。まだまだ全然、この海の果ては遠い。
ぱしゃん、と顔にしぶきがかかかった。ふりかえると、日焼けした笑顔が浮き輪にもたれて浮いていた。浮き輪の下に伸びる脚が水を蹴ると、僕の体はゆらゆらと波に揺れる。僕は、その赤い浮き輪に腕をかけると、そっとつま先を浮かせた。じわりと波がたった。浮き輪から同心円状にひろがるそれは、きっとどこまでも途切れない。
2025/6/5
「水たまりに映る空」
嘘なんてもうつかない、と決めさせられた直後だったから、実を言うと非常に困っていた。私と別れたいんでしょ、とこちらを睨みつける女子大生に、否定もできないし肯定なんかもちろんできない。だって刺されるもん。何その刃渡り。見たことないくらい長い、かろうじて包丁の形をしている鋼鉄は俺の大事なヘソをロックオンしている。いやヘソ刺されたら死ぬって。ヘソって赤ちゃんのときにママとくっついてた内臓なんだけど。内臓刺されたらそら死ぬでしょ。
まずは包丁置こ、と笑いかけるもどうやら聞こえていないみたいで、もうこれは本格的に困った。嘘つくしかない? いやいやそれは、無理。だって祟られるもん。刺されるより祟られる方が怖、いや、実を言うと逃げたい。本当に幽霊として居るなら逃がしてくれ。お前だって俺がヘソ刺されて死んだら辛くて悲しくてか弱い女子大生の枕元に立つわけにもいかないから地縛霊になっちゃうでしょ。ね。逃がしてくれたら何でもするからお願い!
「何とか言ってよ!」
え? 今なんて言った?
現実逃避しすぎて聴覚がどこかへいってしまっていた。なーんて言っても通じるはずはなく、鋭利な鋼鉄は俺の綺麗な顔目掛けて振り下ろされていた。
頼む頼む頼む頼む何でもするから助けて!!
パアン、と、破裂音がした。
手のひらに食い込む痛みに、おそるおそる目を開くと、妙に長い包丁の切先は俺の鼻に届く一センチ手前で静止していた。正確には渾身の祈りが幽霊に届き、白刃どりに成功していた。神様って本当にいたんだ。そう思った瞬間、腕からふっと力が抜けた。包丁はカランと床に落ち……はせず、俺のヘソに向かって再突入。あかん死んだわ。鍛えてたつもりだったけど、俺の腹って結構柔らかかったんだ。俺の筋肉や皮膚はさっくりと切断され、痛みなんて感じる時間もないまま、俺は俺に取り憑いた幽霊を見た。
あーやっぱり。喧嘩別れして以来お久しぶり。生前ボロクソ言ってたわりには俺のことまだ好きだったのね。何年くっついてきたっけ? まあいいか、それなら俺も白状するけど、君がこの前交差点でバイバイして以来、嘘はついてないよ。すまんね罪な男で。でも、もう嘘はつかないって決めたのは本当。嘘つかれたくなかったら嘘つかないしかないもんね。そんじゃしばらくさよなら〜。
ってしたいけど、4/1のアレは嘘じゃないんでしょ? 虚構の日に本当のこと言うなんて信頼なくすって! じゃあまた改めて、よろしく。
「エイプリルフール(2024/04/02)」
このヤローいい加減にしろよ、と思いながらじっと待っている。今までもこうして待たされることはあったが、こちらが痺れを切らすまえにきっと応えてくれた。今回だってそうに決まっているのだ。だから、腕を組み替えるたびにそちらを向きそうになるけれど、ぐっと眉根を寄せて視線を前に固定した。この高さから臨む空は、ずっと万古の昔から同じように澄んでいるのだろう。空色にふさわしい軽やかな風が服の裾と絡んでは離れ、洞窟内に微かな音を生んだ。
こうして立ち続けてどれくらい経っただろうか。
待ち人は、重い鋼鉄の扉を超えた向こうに行ってしまって戻らない。待ち侘びる彼女はいつまでも前を向き続けている。たとえ風が彼女の足元に綿毛を運んでこようとも、たとえ暴雨が革靴をずぶ濡れの黒色に変えようとも、たとえ流れずに残った種子が根づこうとも、鋼鉄の扉が内側から軋むまで、彼女は前を向き続けなければならない。だって一度でもそちらを向いてしまったら、なにげない振り向きなんてもう二度とできないから。
「何気ないふり(2024/03/31)」
俺あかんねん、見つめられると見つめ返さなあかんって思ってまうの。もう目乾きそうなんやけど。カッピカピや。涙ももう枯れたわ。せやからそんなモノクロの顔で笑いかけんとって。もっとよう見ておけば良かった。今更目乾かしとったって遅いわな。目の水のうなる前に見とかなあかんかったわ。そうやって見つめられる前にもうのうなったさかい、あとは乾くだけや。乾いてなんも見えんくなるだけや。それでもう、ええわ。
『見つめられると(2024/03/29)』
色は重ねるほど濁っていくという。大好きな色や美しい色や大好きと聞いた色や気まぐれに手にとってみた色は、重ねれば重ねるほど、どんどん黒に近づいていく。どんどん向こうが見えなくなって、輝きを減らしていく。元の形さえわからないくらい重ねたとしたら、きっと、それはハート形。あなたも私もハート形。ひし形なんて許されないからハート形。生々しい心臓の形なんて見たくないから♡形。
でも本当は減法混色がいいのに。私が、私の好きな色の、スポットライトを浴びていたい。
『My heart (2024/03/27)』