ドッペルゲンガーというものがある。
二回見ると死ぬと言われる超常現象で、通常であればまず出会うことすらない。
そのはずの存在だったが、青年の前に姿を現すのはこれで二度目だった。
一度目は大学の帰りに見かけただけだった。ソイツは何やらきょろきょろと辺りを見回していたと思うと、こちらを見てニヤリと笑った。あまりに不気味なので気のせいだと思い込もうとしたが、翌日女友達に行ったはずのない場所で見かけたと言われ、背筋が凍る思いをした。
そして今、目の前にソイツがいる。
安物ブランドでどうにかこうにか見繕った全身のコーデに、ちょっと無理してデパートまで買いに行ったコート。梳かしてワックスで軽く固めた髪に、右頬のほくろ。
似ている、どころではない。つま先から頭のてっぺん、癖のついた髪の毛先に至るまで、瓜二つだ。
青年は後ずさった。
ドッペルゲンガーを信じているわけではないが、目の前の男は気味が悪かった。
ニタリ、とドッペルゲンガーが嗤う。
「ヒッ」
小さな声が漏れた。
捕食者の笑みだ。理屈ではなく、直感した。
脇目も振らず、振り向いて逃げ出した。ここにいてはいけない。絶対的な死の予感が青年を駆り立てた。
道ゆく人々が怪訝な顔で振り返る。群衆の中から知り合いの声が聞こえた気がしたが、振り返って確かめる余裕はなかった。
大学のトイレに駆け込み、個室の鍵をかける。少しは時間を稼げるはずだ。
震える手でスマホを取り出し、SNSを開いてフォロー中一覧をスクロールする。友人は多いが、こんな荒唐無稽な話をまともに取り合ってくれる相手がいるだろうか。
考える時間ももどかしくパッと目についた相手に通話をかける。
コール音を聞きながら額の汗を拭う。息をついて顔を上げ──、
──ひゅ、と息が止まった。
あるはずのない顔がそこにある。
便座の蓋の上にしゃがみ込み、頬杖をついて、ドッペルゲンガーがニコニコと彼を見ていた。
コール音が止み、相手が応答した気配があったが、もはや気にしている余裕はない。
巨大な手が伸びてきて顔を鷲掴みにされる。避ける場所はどこにもなかった。
手が触れたところから皮膚が砂のように溶けていく。
数秒もしないうちに青年だったものは消えてなくなり、スマホだけが派手な音を立てて床を転がった。
「──い、おい大丈夫か? なんかすげー音したけど」
ドッペルゲンガーは緩慢な動作で便座の蓋から降り、青年のものだったスマホを拾い上げた。
「──悪い、ポケットの中で勝手にスマホが反応しちゃったみたいでさ。今便器に落としそうになって焦ったわ」
「んだよ便所かよ。もうすぐ講義始まるぞ」
「わかってるって。すぐ行く」
何食わぬ顔で通話を切り、表示されたSNSのタイムラインを眺めた。そこには青年がせっせと投稿していた友人との写真や自撮りが大量にアップされている。
「この世界は広すぎると思って、探すのも諦めてたけど。なんだ、案外狭いもんじゃないか」
場所のヒントはたくさんあったから、ネットで自分のオリジナルを見つけてしまえば、特定は容易だった。
「ありがとね、たくさんアップしてくれて。お陰で──俺がホンモノになれる」
もう一度、ニタリと笑って。手で頬に触れて青年が決してしないだろうその表情を直し、ドッペルゲンガーは何食わぬ顔でトイレを出た。
青年が消えた証拠は──いや事実は、どこにもない。
(お題:この世界は)
帰り道、知らない番号から電話がかかってきた。
宅急便だろうか。深く考えずに通話に出る。
「どうしてわたしを殺したの」
もしもし、と口にするより早く、耳に届いたのは怨嗟の声だった。
「……気づいてなかったのかよ。アンタ、とっくに死んでたよ」
男は霊媒師だった。
たった今、轢き逃げで死んだ少女の地縛霊を祓ってきたところだ。
「というか、祓ったはずなのにどこからかけてきてんの」
戸惑ったような沈黙があった。まだ男の言葉を飲み込めていないらしい。
ややあって、
「……かみさまが電話貸してくれた」
「いや霊界と現界の直通電話なんてモン、ほいほい貸すな!」
「『貸してないぞ〜取られたんじゃぞ〜というかそろそろ返し』かみさま、うるさい」
入り込んだしわくちゃの声は、少女の言う『かみさま』のものらしい。
女の子に困らされる白髭の爺さんを想像して吹き出しそうになる。神様が白髭の爺さんなのかは知らないが。
「──で? アンタを殺したほんとの犯人に言いたいことある? 伝言くらいなら受けられるよ」
気を取り直して、電話口に問いかけた。
代わりに殺してやる、とかはさすがに言えないが、恨み言を伝えてやるくらいはいいだろう。
幼い少女を轢き殺しておいて厚かましくも逃げ去った犯人には、男も腹に据えかねていた。
「思いっきりおどかしてほしい」
少女が力強く答える。
「さっきみたいに?」
「さっきみたいに」
「了解。んじゃ、犯人が怯える顔を楽しみに待ってな」
そう言って電話を切──ろうとして、ああ、と思い出して再びスマホを持ち上げた。幸い、通話はまだ切れていない。
「──次は、地縛霊になんかなるなよ」
(お題:どうして)
宇宙からの旅人が初めてこの星を訪れてから、五年の歳月が流れた。
今や宇宙人は隣人と呼べるほど、当たり前の存在として地球に定着している。
街を歩けば地球と異なるファッションに身を包んだ人々とすれ違うし、街頭広告では系外惑星産の商品が次々と流れてくる。気軽に宇宙旅行に行くことはまだできないが、それも遠くない未来だろう、と言われている。
にもかかわらず、宇宙開発局の研究員アルバートは未だ宇宙人の存在を認めていなかった。
宇宙人といえば、灰色や緑色の皮膚で髪はほとんどない、つぶらな瞳の人型生命体であるべきだ。円盤型の未確認飛行物体を乗り回し、時折目撃されては話題を呼んでいる、そんなロマン溢れる生き物であるべきだった。
ところがどうだろう。実際に現れた宇宙人を名乗る奴らときたらホモサピエンスとほとんど変わらない見た目と身体構造で、その上何の変哲もないロケットに乗ってやって来た。そんなものは宇宙人とは呼べない。ただの外星人である。
どこかにまだ、宇宙人はいるはずなのだ。
「それを長官のヤロウ、『地球外生命発見のための研究はもう必要ないから徐々にチーム縮小し解散する』なんてのたまいやがって……」
彼らが乗ってきたロケットが宇宙のスタンダードなら、九十年代に多く寄せられたUFOの目撃情報は一体何だと言うのか。
「私はまだ諦めないからな」
アルバートは決意も新たに拳を握りしめた。
ここで諦めるようでは、すべてを投げうって勉強に励んだ少年時代の自分に申し訳が立たない。
「君のそういうひたむきなところ、わたしは嫌いじゃないけどね、」
唐突に耳に滑り込む、人を食ったような軽い口調。
思わずムッとして振り返った。
広く閑散とした廊下を、馴染みの同僚が手を振りながら歩いてくる。彼と同じ茶髪に翠眼の彼女は、ペガスス座五十一番星bディーミディウム出身の宇宙人だと言う。客員研究員として招かれたと言っていたが、まともに取り合ったことはない。
UFOに乗ったことはおろか、見たこともない宇宙人などいるわけがないのだ。
彼女の次の言葉は言われずとも想像がついた。
「どうせ長官に聞かれないように気をつけろ、とか言うんだろ」
「うん。迂闊な言動してると、そのうち首が飛ぶよ」
「ふん、チームが解散するなら、解雇されようが同じことだ」
アルバートは肩を怒らせて、自称宇宙人の同僚を置き去りにした。
変人にかまけている暇はない。チームが解散しようが局を追い出されようが、できることはまだ残っている。
半生をかけた夢を、ここで終わらせるわけにはいかないのだ。
大股で立ち去る背中を見送って、ディーミディウムからの客員研究員はふっと笑みを漏らした。
実のところ、アルバートの考えはそこまで間違っていなかった。
まったく違う環境で生きる種が、地球人と同じ構造をしているほうがおかしいのだ。ただ、地球を訪れる上で不都合が生じぬよう、同じ姿形を取っているに過ぎない。現地人を脅かすことになるからと、地球近くでの円盤型飛行機の使用も五年前に禁止された。話題にするのもちろんダメだ。
無論、このことを知る地球人はいない。
なぜなら──、
「君たちは違うモノを、異様なほど恐れるだろう?」
誰の耳にも届かぬよう、小さく呟いた。
恐怖は敵意を生むし、敵意は争いを招く。そうなれば戦争は免れないし、それは彼らの本意ではない。
アルバートが夢を現実にしたその時が、決別の時になる。
夢を叩き壊すのは簡単だ。一度母星に連れ帰って、洗脳してしまえばいい。
だがそれだけはしたくなかった。ひたむきに夢を追い続ける姿が好きだと告げたのは、事実だったから。
だからどうか、夢に辿り着かないで。醒めないままでいて。
あなたの夢がずっと、夢のままでありますように──。
(お題:夢を見てたい)