私のしんどい一日の報告が、
なんでふたりが親なのに私ばっかりという
いつものエアスポットに落ちた瞬間、
悪かったって。と
たいして悪びれず夫は言う。
燃料が思い切り追投下されたのを
自分の頬の燃えるような熱さで知る。
何が悪かったの?
私の話、途中なのに!
本当にそう思ってるわけ?
結局、自発的なごめんねを期待してるくせに
自分の苦労を語って聞かせてる時点で、
私の目論見は失敗している。
夫はアルマジロ的に鎧を纏って
耳はタコ。
思考停止で、嵐が過ぎ去るのをひたすら待っているのだ。
何度と繰り返すこのくだりに来て、
いつもそう思うのに、
私も夫も、なんと成長のないことよ。
しばらく、普通より大きめな音を出しながら
家事をする。
自分だけが怒っているのに、
居心地が悪くなる。
同じやり取り。
同じ反応。
同じ流れ。
。。。。。ばかみたい。。。。
結局私が、なんかテンパッた、ごめんね。
と、口を開くと
大変だったんだよね。と
夫も言う。
また同じだ。
でも、なんとなく、心は落ち着き、
気持ちは新しくなる。
きっとまた1週間位は、がんばれる。
結局、同じでも必要な時間なのだ。
夏休み。
一年に一度、家族で旅に出る。
五人も子どもがいるものだから、
誰かが熱を出さないか、
妹の喘息の発作が起きないか、
見張ったところで、なんの効力もないのだが
兄弟の様子に変化が起きないか
じぃっと見つめる日々が続く。
そして無事に出発前夜を迎えると、
ティッシュを丸めて糸でくくり
てるてる坊主の集団を
カーテンレールに整列させることになる。
平成初期のあの頃は
梅雨明けとともに
入道雲がひっくり返りそうなほど
大きく高くそびえ立つものだった。
クーラーの効きの悪い三菱パジェロのルーフに
父がどこから調達したのか、
銀色に光る大きな金具を取り付け、
浮き輪やらゴムボートやらを詰め込んだ
大きなボストンバッグをくくりつけた。
長い長い渋滞を超え、
高速道路の向こうに海が見えれば、
私達の車酔いも一気に吹き飛び、
誰かが
♪うーみーはひろいーなと歌いだせば、
必ず5人の大合唱になる。
どの瞳も夏の光に透けて、
はしばみ色に瞬く。
助手席の母の満足げな微笑みと、
運転席の父の口笛が
私達をいよいよ勢い付かせ、
思いつく限り、次から次へ歌い続ける。
でもあの夏は。
目指す方向へ、走れば走るほど、
空が色彩を失い、
とうとうフロントガラスに
小さな粒がついたかと思うと、
驚く速さで、左右に走っていった。
ワイパーが早まる度に
私達の興奮は、面白いほど萎んでいった。
海が見えるはずの時にはもう、
打ち付ける雨で、外の様子は滲んで見えなかった。
ただ、車の走る音が大きいせいで
外界の雨は、無音で
どこかで別世界のようだった。
小さな弟妹はとうに眠ってしまい、
寝息だけがスースー温度を持って響き、
どこか、自分も夢を見ている気にさえなっていた。
タイヤが、リズミカルにアスファルトの継ぎ目で
低い音を立てる。
その音を聴く気持ちの準備をしていた
次の一瞬浮遊感を感じた。
父があっ。と大きな声を上げた。
ビクッと弟が目を開けた。
後ろ!と怒鳴る父の声で、
最後部に座っている私は、リアウィンドウに額をつけた。
紺と白のしましまの何かが
コロコロ転がり、雨にけぶって見えなくなった。
あっという間の出来事だった。
あれが、私達の浮き輪がパンパンに詰まったバッグだと思い出した時には、
妙に落ち着いて、諦めるしかないことを知っていた。
路肩に車を停め、
母がドアを開けたとき、
雨の匂いと大音量が、車の中まで侵入してきた。
そのバケツどころか、海をひっくり返したような
圧倒的な量の水に、その音に。
愉快としか言えない感情が湧き上がってきた。
あーあ。
大きな声で私が言うと、
姉も、あーあ。と応じた。
あーあ。
あーあ。
あーあ。
あーあ。
いえば言うほど愉快になった。
あの夏は。
台風が直撃した小さな民宿で。
窓ガラス一枚隔てた安全地帯から
荒れ狂いうねる波を、
父の8ミリで、ひたすら撮影して過ごした。
結局、撮った本人も吐き気を催すので
五分と見返されることなく
上書きされたのだと思うけれど。
退屈した記憶は一切ないのである。
空がこんなに広かったのか。。。
平日の午前中に制服で、一人で坂を駅へと下っていく時に、振り返った、大きな空を忘れない。
あの空は。
鳥かごから出されて、その自由に戸惑った、私の心。
冷たい空気は、頬に、肺に、心地よく。
たしかに、真っ青な高い空に未来を感じたのに。
わざとらしく両手を上げて伸びをしてみても、
なぜだか、心は、空気ほどは透き通らない。
背中のリュックには、願書。
ずっと行きたかった高校。
受験勉強は充分で、9月からずっとA判定で。
きっと明るい未来が待っているのに。
高校生の私はきっと。
あの高校で、友だちも出来て。
少し大人びて。
大好きな英語を思う存分話せて。
誰かが、笑いを含んだ声で私の名を呼ぶんだ。
あそこから出られれば。
あの空間から脱出さえすれば。
卒業さえすれば。
きっと、全ては元に戻る。
楽しい日常が、また息を吹き返す。
卒業までの日を指折り数えてここまで来た。
もう2月。受験が終われば、卒業だけだ。
全てに別れを告げて。
私は未来に歩みだす。
あの空はきっと、私を祝福してくれている。
あんなに広くて、澄んでいて。
空を見上げたなんて、いつぶりなんだろう。
こんなに時間があったのか。
家や中学からたった10分のところに。
小春日和の日差しの中で。
こんなにゆったりした時間が流れていたなんて。
知っていたはずなのに。
知らなかった。
思い出す暇さえなかった。
忘れていた。
窒息しそうで、
気を抜いたら終わってしまいそうで。
歯を食いしばって、息を止めて
隙を見せずに、早足で。
きっともうすぐ終わる。
きっぱりすべてと離別して、私は、自分へと戻るんだ。
戻れるはずだ。
。。。もどれるつもりだったのに。
青くて広くて、染みるほど高い空は。
今も眩しくて、私の心には、収まりが悪い。