ここではないどこか
私は忙しかった。精神的に追い詰められるような仕事と状況が重なりに重なって、息つく暇もないくらいだ。
忙しい。時間がない。時間があっても疲れきっていて、気がつけば次の朝が来ている。
趣味も忘れた。やりたいことも忘れた。私が生きているのか死んでいるのかも忘れた。実際、私の顔は死人のようだったと思う。仕事。仕事。
必然的に、掃除にかける時間が減る。身だしなみにも気をつかえていない。ひとり暮らしを始めたばかりの頃は、綺麗な新居と新天地にわくわくしたものだ…ここが同じ部屋だなんて思えない。汚い。もう嫌だ。嫌だ。どこかに消えちゃいたい…
「君、全く有休を使っていないな。もう年度末も近いし、そろそろ使ったらどうかね」と上司。「最近は上がうるさくてね。有休消化率が悪いのも少々困るんだよ」
ーーー
なりゆきで私は4連休を手にした。
1日目。気力ゼロ。ゴロゴロした。何したらいいんだろう。なんとなく、部屋の隅にあった雑誌を読んだ。そういえばこんなの好きだったな私。
2日目。部屋を片付けた。片付けるだけで1日を消費した。見違えるほど綺麗な部屋を見て、なんだか別の場所のように思えた。いいな、この部屋。
3日目。街に出て買い物をした。ちょっといい服を買って着て、ちょっといいカフェでパンケーキを食べた。そうそう、私こういうの好きだった。窓ガラスに映る笑顔を、私は久々に見たかもしれない。
4日目。なんで今まであんなに追い詰められていたんだろう。忙しいとか思ってたけど、もう少しだけ力抜いても結果は変わらなかった気がする。なんか、自分で自分を追い詰めてた。誰にも責められてなかった。なーんだ。昨日買ったドーナツ1個余ってたはず。
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この仕事、結構楽しいな。いや業務内容とか何も変わってないんだけどね。気分がなんか違う。
周りの人の視線が温かい。元から温かかったんだと思うけど、気づけてなかった。
休息ってこんなに大事だったんだ…もし総理大臣になれたら義務教育に組み込もう。
まるで今までとは違うどこかに来たみたいだ。
ちょっと休んで、ちょっとしたことに気づいただけ。それだけで、なんだか居心地がいい。
今日は定時で帰っちゃおうかな。クッキー焼いてみたい。
君と最後に会った日
先輩が卒業してから3ヶ月になる。
私は先輩のことが好きだった。あまり真っ直ぐな「好き」ではない。頑張ってもなかなか報われない、勉強も上手くいかない、運の悪い先輩が、可哀想で可愛くて可愛くて。でも頑張り屋なところは本当に尊敬していたと思う。軽くて薄っぺらい、誰にでも向けるような「好き」なのかも。
先輩は絵を描くのが好きなようで、ときどきSNSに絵を投稿していた。正直上手くはなかったけど、その独特な雰囲気と世界観が好きだった。私も絵を描くのは好きなので、先輩の持つ不思議な世界観は本当に羨ましかった。
とにかく好きだったけど、卒業して離れてみたら意外と寂しくはなかった。本当の心からの「好き」ではなかったのかも。私は落ち込むこともなく生きている。
いつの間にか、先輩のSNSが非表示になっていた。
最後に会ったのはいつだっけ。
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先輩に会った。偶然。いつも通り先輩は優しかった。最近どうとか元気とか他愛もない話をして、思い出話を少しして。そんなこともあったな、忘れてた。
また今度、なんて社交辞令を交わして別れる。
私のこと覚えててくれたんだな。ちょっと嬉しい。
今も変わらず頑張ってるんだろうな。すごいな。
そういえば聞き忘れたな、絵のこと。思い出さなかった。
やっぱり明日からも、寂しくはないんだと思う。
でも最後に会ったのは今日だ。今日の会話はまだ覚えていて、まだ忘れていない。
先輩、まだ絵が好きなのかな。
私は、まだ絵が好きだ。
SNSもスケッチブックも今は開く気分じゃない。
でも私はやっぱり絵が好きで、明日になったら描くだろう。
やっぱり頑張り屋な先輩が好きで、忘れることはないんだろう。
心のどこかで覚えている、どうでもいい「好き」。そういうものに人は作られているのか。私はどうして絵を描くのか。
心の奥底にいる誰か、私に絵を描かせる誰か。
君と最後に会ったのはいつだろう。
日常
学校に行く途中、道端に目玉と肉塊が生えている。持参したバールのようなもので叩き潰す。戦利品を拾う。しばらく歩くと巨大な酸スライムが道を溶かしていて、流石に勝ち目がないので迂回する。
化け物が街中に溢れだしてからどれくらい経ったのか…こんな光景はもはや、我々にとってごく普通の日常である。
戦いを挑まなければ危険はないのだが、なにしろ奴らは倒すと戦利品を落とすのだ。不用意に戦うなと大人達は言うが、ほとんどの金欠学生は通学の片手間に戦っている。俺もそのうちの1人だ。なんだかんだ目玉と肉塊と芋虫ぐらいなら簡単に倒せる。ちなみに、蝶と花にだけは挑まないほうがいい。
「おっ、今日も大漁じゃん。それ目玉のやつだろ?」
「そうそう。小さいけど肉塊もある」
「2体も狩れるなんて強運だな、こっちは蝶しかいなかった」
「どんまい」
友人と雑談を交わし、席につく。退屈な授業が始まる。
1日が終わったら戦利品を換金してもらおう。2000円ぐらい貰えたらいいけど、まぁ小さいし無理だろう。換金所までの道にもう一体ぐらいいたらいいな…
そんなことを考えながら居眠りしてしまい、教師に怒られる。友人に笑われた。お前だって居眠り常習犯だろ。
抜き打ちテスト赤点。窓の外の芋虫。増える戦利品。退屈な午後の授業。掃除。帰宅。換金所に寄るの忘れた。
いたっていつも通りの充実した日常である。
好きな色
私には好きなものがない。言い換えれば、全てのものが好きだ。
周りに合わせたり、その日の気分によったり。部屋には、なんの関係もないものが大量に溢れている。
何をしても楽しいし、何をしても楽しくない。毎日の「自分」がまちまちで、一貫した「好き」がない。好きなものを急に聞かれたら困る。
「昔からずっとこれが好きで〜」なんて、1度は言ってみたいものだ。一貫して好きなものがあるのは羨ましい。私なんて、いつも違うことをしているから毎回中途半端になってしまう。ずっと、何か1つのことを極めてみたいと思っている。
でも好きな色はピンクと水色だ。昔からずっと。色に関しては極めるもなにもないが、それだけは一貫している。
あぁでも、やっぱり紫も好きだ。パステルカラーは全部好きかもしれない。どんな色にも良さはある。どんな色でも好きだ…また「好き」が失われた。
私は今までもこれからも中途半端で、これから次々と「好き」が消えていくのだろう。この世の全てが好きなのと、この世の全てに興味がないのとでは、なにが違うのだろうか。
ただ1人を一生愛するなんて、きっとできないんだろうな。
あなたがいたから
あなたがいたから頑張れた。
そんな言葉、ただの綺麗事だと思ってた。
私には、一緒に頑張ってくれる人なんか誰もいなかった。
一緒に寄り添ってくれる人なんか誰もいなかった。
ずっと孤独で、全てを諦めていて、しかし心の奥底ではまだ見ぬ「あなた」を探している。苦しみと渇望。そして絶望。
「あなた」に出会えたら、私の最後のピースが埋まるのだろう。頑張れた、あなたのおかげで、なんていう日が、いつか私にも。
「結局なにも頑張れてないねぇ。でも、あなたがいたからここまで来れたんだよ。」
「私も、あなたがいたから勇気が出た」
「「一緒に死のう」」
2人の手首を固く結ぶ赤いリボン。ずっと一緒の証。
「誰の役に立ったことがなくても」
「最初から最後までずっと死にたくても」
「「あなたがいたから幸せだった」」
世界一不幸で幸せな2人は、笑顔で永遠にこの世から去った。