落下
物が落ちなくなった。それはもう突然に、物が落下しなくなった。最初に気づいたのは友人とサッカーをしていた時だ。友人が高く蹴りあげたボールがいつまでたっても落ちてこないのだ。飲み終わったジュースをゴミ箱に入れようとしたら、ゴミ箱の入り口で静止してしまったのだ。異常事態だ。物が落ちないだなんてそんな馬鹿な。ボールに手が届かなかった俺達は、とりあえず街の様子を見て回った。
ポイ捨てされたペットボトルが浮いていた。吸い殻が浮いていた。軍手が浮いていた。…なんで道に軍手が?とにかく落ちるはずのものが浮いているのである。しかも落ちてくる気配がない。俺も空中浮遊を試したが、人は落ちるようだ。残念。どうしたものかと2人で考察を試みたが、結局その日は解散となった。
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物が落ちなくなって2ヶ月が経過した。
物が落ちないというのはなかなか便利だ。ものを一旦空中に置くことができるし、収納スペースが足りないなら天井付近にやればいい。体重をかければ落ちるので空中に椅子を置いて座ることはできないが、それでもなかなか便利である。最近は球が落ちないのを利用した新球技まで登場した。友人と共に絶賛どハマり中だ。ただ、飛ばしすぎて取れなくなった球が空中にあるのが散見されるようになった。
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物が落ちなくなって3年が経過した。
最近ではゴミを空中に飛ばして処理するのが主流になっている。兵器など負の遺産を空中に置く計画も実行されたようだ。二度と見たくないものを空高く飛ばすプチ気球なんかも売っている。もう物が落ちる世界など考えられなくなってきた。
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物が落ちなくなって10年が経過した。
空が不用品で埋め尽くされ、黒ずんでいる。
こうなるって予測できなかったんだろうか。
人類も落ちたもんだなぁ…
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物が落ちなくなって50年が経過した。
あのときのサッカーボールが落ちてきた。
未来
未来都市001号。それが、俺の住んでいる街の名前だ。
浮遊する地盤に立ち並ぶのは特殊素材のクールな家々。そこを飛び回るのは運送用ドローンと浮遊型自動運転自動車。当たり前すぎる、むしろ少し古くさい光景で、未来都市なんていう大層な名前に笑えてくる。なんだか、大型犬の子供にチビと名付けたようなものだと思う。
とにかく、この古くさい未来都市に俺は住んでいる。生まれたときからずっと、この浮遊する都市で生きている。
…浮遊していない本当の地上には、行ったことがない。
ある日、俺は海を見ていた。浮遊都市の端には海がある。円盤状の地盤を囲む水の壁。揺れさざめいてときどき波打ち、見るものの心までも波立たせる海。この街の住民たちは、この壁の外を知らない。本当にここが浮いているのかすら確認する術はない。地球平面説みたいだといつも思う。地球が球形だと誰もが知っているが、平面ではないことを肉眼で確認したものは滅多にいないのだ。
ふと思い立ち、俺は海に身を投げた。
空中浮遊都市の素晴らしい教育により、今までこんな愚行に走ったものはいない。しかし、俺は外の世界が気になって仕方なかった。
海は広かった。無限のごとく続いていた。そして、確かに都市は浮いていた。
海の中、水中に、浮力で浮いていたのだ。
1年前
彼に出会ったのはちょうど1年前だったと思う。私の一目惚れだった。
一緒に暮らすことになったときは苦労の連続だった。全然振り向いてくれないし暴力も振るわれる。ご飯代も全部出さなきゃいけないし。嫌われてるのかな、私が悪いのかな…でもいてくれるだけで嬉しい。
1年経った今、相変わらず彼はご飯を請求してくるし、仕事の邪魔だってしてくる。束縛が激しくてすぐ嫉妬するし、家から出るのにも一苦労だ。彼との関係は上手くいっているのか分からない。でもやっぱり、いてくれるだけで幸せだ。
いつも通り、私は彼のために買ったご飯を用意する。今日こそ振り向いてくれるかな…?
「ミケちゃん!ご飯だよ〜!」
「にゃー」
「うああ可愛いねぇモフモフだねぇミケちゃん!ミケちゃんがいるだけで幸せだよミケちゃん!可愛い可愛いねぇぇ」
「…にゃー…」
今日も振り向いてくれなかった。このあとお風呂入れなきゃだから、また引っかかれる覚悟をしなきゃ…
好きな本
私には、大好きな本がある。内容は小説だけど、買ったのは中身じゃなくて表紙に惹かれたからだ。美しく繊細なタッチで描かれた主人公の女の子。彼女に一目惚れしてしまった、というのが正しいだろうか。あるいは、彼女を描いた人に惹かれて。いずれにせよ、運命的な出会いだったのに間違いはない。
もちろん中身も読んだ。しっかり読んだ。何度も読んだ。駆け抜けるように何度も読んでしまうほど、読みたくなるほど、私はその内容にも惹かれた。主人公の生き様に惹かれた。本当に表紙も内容も、何もかも好きな本である。
何度も読み返すうちに私は気づいた。間違いない。
私はこの女の子に恋をしている。
私は彼女をお高めのブックカバーに入れ、鞄に入れて持ち歩いた。彼女が近くにいてくれる気がしたからだ。あの本を、あの本に描かれた彼女を、私は愛している。
表紙にしか描かれていない彼女の顔。文章としてしか存在しない彼女の存在。彼女の生き様。どうしようもなく好きな彼女が、本という形をとって私の手の中にいる。なんだか素敵なことだと思った。
しかし、私はあまりにも彼女が好きになってしまった。1冊で完結してしまう、私とは違う世界に住む彼女。私の愛する彼女は、私からあまりにも遠かった。彼女と一緒にいたい。もっと近くにいたい。その欲望はだんだんと私の心に満ちていった。ついに臨界点に達した。
私は、私も文章になるという選択をした。
文章というのは素晴らしい。「そこにある」と表記するだけで、登場人物にとっては本当に「そこにある」ようになる。単語の数だけ、無限の可能性が広がっている。筆者が言葉を紡ぎ、読み手が言葉から思い描く。その範囲内で、登場人物は自由自在に踊れるのだ。あなたが今そうしているように。
私の欲望は、次の1行を表記するだけで全て叶ってしまう。本当に素晴らしい世界だ。
私は愛する彼女と共に、同じ世界でずっと幸せに暮らした。
あいまいな空
ある日、空が突然溶け始めた。
最初はただの雨だと思った。しかし雨が降っているのに空は晴れていて、その雨粒には空のような色がついている。大きくて、柔らかくて、空のように美しく暖かい雫。なんだか色と雲の境界があいまいに見える空。確実に空が溶けていた。
昔、中国の杞の国で、空が落ちてくるのを心配した人がいたそうだ。それは「杞憂」に終わったらしいが、本当に溶けて落ち始めてしまえば杞憂には終わらない。人々は、空が全て溶けて落ちきってしまうのを憂えた。
しかし、悪いことばかりではなかった。
「見てよこれ、超綺麗じゃない?最高傑作かも!」
幼馴染の加奈が見せてきたのは、美しい夕暮れを閉じ込めた小瓶だった。似た色のビーズやリボンで上手くデコレーションされていて、どこかに飾りたくなる見た目だ。
「綺麗だな…」
「でしょー?昨日の夕方に拾った空なんだ!あんたもやってみたら?拾って入れて飾るだけだよ!」
「いや、俺は遠慮しておく」
「もー、あんた本当にハンドメイドに興味無いよね…」
「加奈ほど綺麗には作れないからな。尊敬する」
「えへへぇ」
溶けた空の雫は溶けた瞬間から劣化しない、ということが好奇心旺盛な加奈により発見され、はや1週間。
空の雫をケースに入れて飾りつけると綺麗だ、ということがハンドメイド好きの加奈により発見され、はや6日。
SNSで空を加工するのが流行りだしてから、はや3日。
人々は、落ちてきた空を楽しんでいた。
「空最高、綺麗なの無限に作れる…次はキーホルダーとk」
「痛っ!?」
「あはは、空が頭に!ぶつかっても別に痛くないでしょ」
「…ただの条件反射だ」
ーーー
やはり世の中、いいことばかりではない。落ちてきた大量の空は全く劣化せず、もちろん消えることもない。人類は空をどう処理したものかと途方に暮れた。とりあえず空き地に山々と積まれた空を見に行ってみたが、色とりどりの空が地上まで続いているような美しい錯覚を覚えた。しかし、もうすぐあの場所は空で溢れてしまうだろう。
空の飽和は最早、社会問題と言ってよかった。
「これからどうなっちゃうんだろうね。最初は綺麗だと思ってたけど…いや今も綺麗だとは思うけど、流石に多いね」
「限度ってもんがあるよな。空の処理のために使われてる土地もかなり増えたらしい」
「上にあるほうの空も、ドロドロ溶けた感じなのに見慣れちゃった。元々空ってどんなだっけ…」
「…まだ、降るのか…?」
大量に落ちてくる空。地上に溢れかえる空。空と地上の境界は、日に日に曖昧になっていく。
その状態にすっかり慣れきってしまった人類。かつての空の記憶も、だんだん曖昧になっていく。
ぽつりぽつり、空が降る。空と空との曖昧な境界。
「…空って食べられるのかな?」
「見た目的にはゼリー系に見えなくもない」
「食べちゃおうかな」
「色々とダメじゃないか…?なんかダメな気がする」
ぼとぼとぼと、空が降る。また何かが曖昧になる。
「いっぱい降るね…地上が空みたい」
「空の上みたいだ」
「なんか…元から空に住んでたような」
「地上ってなんだっけ」
空が降る。空が降る。空と空で満たされる。
曖昧さで満たされる。
杞憂じゃなかった。空の小瓶。もぐもぐ。
あいまいな空が広がる。