もしも、あの子が天使なら、目が覚めるまでに空に帰っていてほしい。
そしたら、今夜のことは全部夢だったって思うことにするから。
目が覚めても、まだあの子がそこにいるなら。
きっと、すごくわくわくすることが始まったんだって、期待してしまう。
このすすかぶりの毎日を、キラキラに変える何かが。
『目が覚めるまでに』
ベッドの傍らに、小さいながら袖机がある。
一番上の引き出しには、文箱やら雑記帳やら、身の回りのものが入れてあるが、二段目は手紙の束で溢れそうになっている。
丁寧に折りたたまれて封筒に入っているものもあれば、破きとったらくがき帳をなんとか四つ折りにしたものもある。ほかにも、松ぼっくり、シロツメクサの葉の押し花、ひまわりの種、小さくなった鉛筆なんてのもあった。
今日届いたのは、丁寧に折りたたまれてる部類の手紙だ。
ちょっと不思議な近況が、きれいな文字でつづられていた。
「あのね、今日ねー……」
楽しそうに話す声が今にも聞こえてくるようだ。
一番上の引き出しから、便箋とペンを取り出し、こちらも話しかけるように書き出す。
食事に何が出たとか、相部屋のだれだれがどうしたとか、それも特段なければ、思い出話くらいしか書くことはないけれど。
ずいぶんと薄くなった便箋の冊子に気づいたが、追加の購入を頼むのを躊躇っている。
「今日ねー……」の続きは、直接聞きたい。
『病室』
旅立ちは、ぜったいに晴れの日がいい!
満天の星、降り注ぐ満月の光で影がくっきりと見えるような、そんな夜がいいに決まってる。
昼間の汗ばむ陽気が落ち着き、涼しさと熱気の両方をはらんでいる夜風が、立ち並ぶ木々の枝をなでるように揺らし、湖の水面をふわりと駆ける。短い夜を惜しむように虫たちが声を上げ、それを彩る蛍が、右に左に揺れながら、未知への扉へといざなう。そんな夜なら最高だ。
明日が本当に晴れるかなんて、明日にならなきゃわからない。
だから、明日旅立つかは、明日に決める。
旅立ちを決めたら、別れの寂しさなど噛み締める間もないまま、地を蹴って飛び立つのだ。
『明日、もし晴れたら』
すべてのひとは、心に鬼を住まわせているという。
鬼はふとした時に顔を出し、ひとを惑わせ、悪しき方向に誘導する。
鬼を飼いならし、鬼に何を囁かれても、それに抗う術を身につけること。
何事にも動じず、常に悠然と構える。その姿を民に見せ続ける。それが、上に立つもののさだめである。
父に、何度も言い聞かされていたことだ。
心がけていたつもりではあった。
しかし、侵略者を前に床に伏す父を見た瞬間、堰が切れて水が溢れるように、激情に身を投じてしまった。
これが、鬼か。鬼に支配されるということなのか。
師が止めてくれなかったら、鬼に身を窶(やつ)した自身は、動くものすべてに襲いかかり、果ては侵略者に串刺しにされるまでそれを辞めなかっただろう。
ぞっとする。
けして、けっして、他人の死を望んでいるわけではない。誰かを傷つけていいなんて、思っていない。
望んでいるわけではないのに、己の行動は一直線だった。迷いも躊躇もなかった。
鬼を飼い慣らす? そんなことできるのだろうか。
また、深い感情を覚えれば、鬼はその首をもたげるのではないか。
恐怖を覚える。
そしてそれ自体も恐ろしい。
恐ろしくて父の弔いも、悼むことすらできずにいる。
『だから、一人でいたい』
若者は、大真面目に、真実を見定めると言った。
それを聞いたとき、女は豪快に笑ったのだ。
生きるために、何をすべきか。何を大切にするのか。大切なものを守るために、何を切り捨てるのか。人の数だけ答えがあり、人の数だけ不正解がある。ある人にとっての真実も、ある人にとっては偽りと嘘になる。女はそれを知っている。
だが、若者はそれができると、成すべきだと、女を正面から見つめ返す。それが女には好ましくも思える。かつて女も、信じる道をまっすぐにまっさらなまま歩く未来を思い描いたのだから。
たとえ、若者と自らの道は、今きっぱりと分かたれたのだとしても。
『澄んだ瞳』