大切な人の声を忘れたんだ。
昔は明瞭だったその輪郭はぼやけて霞み、私の脳内を漂っている。
どれだけ、何をやっても思い出せないんだ。
私を大切にしてくれた、あの人の声が。
私を叱る声。
私を茶化す声。
私を窘める声。
私を満たす声。
あの人がくれた全てを、私は忘れてしまったんだ。
もう一度、もう一度だけでいい。
私にその声を
聞かせてくれ。
早朝、寝台の上。
おもむろに起き上がった私は、開こうにも開かない瞼を手で擦りながら、階段を降りる。
机には母の作った食事。
際限なく流れ続けるテレビの音。
姉は朝早くから仕事なのだろうか、ドタバタと準備をしている。
私はただ、目の前のトーストを貪っている。
ふと、「早く準備しなさい!」と母の声が聞こえる。
1つ返事の後、私は立ち上がり、洗面台へ向かう。
日課と化した歯磨き、洗顔、髪の毛のセット。
支度を終えた私は、その思うように動かない体を説得させ、目の前の重い扉を開ける。
普段と何も変わらない、車窓に映る風景。
普段と何も変わらない、大学の講義。
普段と何も変わらない、友人との帰り道。
全ての気力を費やした私は、倒れるように眠る。
夢現、誰かが私の肩をゆする。
「晩御飯できたよ」
という声。
食が私を呼んでいる。飢えた私を呼んでいる。
私は本能のままに貪る。
軽快な音が聞こえる。私を攫って、海原へと連れていく。
私はただ飛び込む。
暖かい波と石鹸の香りが私を包む。そこで私は瞑想する。
普段と何も変わらない日常をただひたすらに繰り返している。
目まぐるしく変わる疎ましい世間も、私には無関係なのだ。
ただ呆然と朝を迎えては、何事もなく夜を迎える。
私の生きている意味とは、なんなのだろうか。
私が生きている意味とは、なんなのだろうか。
私が生きる意味はあ
突然、「早く上がりなさい」と私を呼ぶ声が聞こえる。
思考が停止する。
私のものではないかのように、足は動き出す。
熱気で酔ってしまいそうな部屋を抜け、私は鏡を見る。
いつもと何も変わらない自分がそこにいる。
何も変わらない、何も取り柄のない自分がそこにいる。
私は服を纏い、疲れきった私を魅惑する悪魔の方へと行く。
またここへ帰ってきた。
私が目覚める場所。
私が眠る場所。
私は目を閉じて、寝台へ飛び込んだ。
世界は私を無視して、容赦なく進み続ける。
まるで私など存在しないかのように。
その無情な世の中で、私は生きている。
意味もなく、ただ生き続ける。
本当に、意味なんてないのだろうか。
私を慕う者。
私が慕う者。
私が興味を示す、全ての物。
そのどれもが私の変わらない毎日を形作っている。
あぁ、そうか。
この日々こそが、私の生きる意味だったのだ。
貴方は私の仮面を外す。
貴方は私の素顔を見る。
私は貴方の仮面を外す。
私は貴方の仮面を見る。
私は貴方の素顔を見れない。
貴方は私に素顔を見せない。
私は地に落ちた仮面に手を伸ばす。
貴方はただ私を見ている。
私は再び仮面をつける。
貴方はただ私を見ている。
仮面が貴方に話しかける。
仮面が私に話しかける。
私は何かを失う。
貴方は気づかないまま。
何かにひびが入る。
何かが音を
立
て
て
崩
れ
る
。
私
は
夏休み明け、学校の一幕。
拝啓
夏の猛暑も終わり、朝夕の風に秋の到来を実感する今日この頃、私は深まりつつある秋を感じる次第であります。恐らく、あなたもお変わりなくお過ごしでしょう。
さて、本日は何をお話致しましょう。ああ、そうだ、あなたに教えて頂いたアップルパイを作ってみたんです。それはそれはもう、とても美味しくて。りんごの甘酸っぱい匂いが私の部屋を満たします。果肉は夢のようにほろほろと崩れ落ちるほど柔らかく、つやつやと光るパイ生地から、香ばしいバターの香りがしました。
え?そんなこと言われなくても分かってるって?
ああ、そうでしたね。きっとあなたも、私と同じ匂いを嗅いでいたのでしょうから。
実は最近、私、ある夢をよく見るんです。
雲一つない青天井の下で、ギラギラと輝く太陽に晒されながら、私は金色の麦畑の中に立っていました。どこを切り取っても、際限なく続いてゆく麦畑、麦畑、麦畑。私は行く宛もないまま、ただ途方に暮れるばかりでした。
ふと前を見ると、一人の少女が立っていました。太陽に照らされて輝く麦わら帽子。一点の淀みもない、純白のワンピース。まるで今にも消えてしまいそうな透明感。その可憐さに、私は目を奪われるばかりでした。
彼女も私と同じように、この先の見えない迷宮に迷い込んでしまったようでした。
「ねぇ」
私はそう言って、彼女に声をかけました。
私の声に驚いたのか、勢いよく彼女は頭を上げました。
つかの間の沈黙が続いた後、
「ここ、どこか知ってる?」
私は彼女に尋ねました。
しかし、彼女は何も答えることはなく、ただ私の顔を見つめるばかりでした。
再び沈黙に包まれ、私が次に続ける言葉を口にしようとしたその瞬間、彼女は黙って私の袖を掴み、前に歩き出しました。
「いったい、どこへ向かっているの?」
そう彼女に尋ねても、ただ彼女は黙々と、私を引っ張って歩き続けます。
ふと私は、袖を引っ張る彼女の腕を見つめました。細く美しい腕に、まるで透き通るような肌。いえ、本当に透き通っていました。半透明だったのです。彼女の腕を通り抜けて、私は地面を見ました。
しかし、私はただそれをぼんやりと眺めるばかりで、何か恐怖を感じることはなく、ただ彼女に引かれるままに歩き続けました。
彼女がふいに立ち止まりました。私もそれに合わせて、ぴたりと歩みを止めます。どこまでも続くと思われた麦畑を抜けて、いつの間にか私達は、バス停の前に立っていました。
押せばすぐに倒れてしまいそうな、古びた木の壁。自然に晒されて黒く錆びてしまった、トタン屋根。私達はただ、来るかも分からないバスを待ち続けました。
風に麦がゆられ、さらさらと波打ちます。彼女もその音を、静かに聞いているようでした。
私達に再び、沈黙が訪れます。しかし今度は、私は何か言葉を口にしようとはしませんてした。ただ黙って、耳を澄ませました。
ぶーん と、遠くの方から音が聞こえてきました。その音は次第に大きくなり、ついに私達の目の前で鳴り止みました。
ぷしゅー と、扉の開く音が聞こえます。私は立ち上がって、目の前の大きな鉄のかたまりに乗り込みました。
私が乗り込んだ瞬間、ばたん と、突然私の後ろで音が鳴ります。私は慌てて振り返り、彼女の方を見つめました。
「君はあっち、わたしはこっち」
彼女がそう口ずさむのを見た途端、この大きな鉄のかたまりは、前へゆっくりと動き出しました。
私は何も言わないまま、ただ遠のいていく彼女を見つめていました。うっすらと消えゆくその白いワンピースを最後に、私は目を覚ますのです。
少々、話しすぎてしまいましたね。これほど長話をした今、きっとあなたは眠ってしまっているのでしょう。ええ、もちろん、あなたの眠りの妨げをするつもりはさらさらございません。なぜならあなたも、私と同じ夢を見ているに違いないでしょうから。その穏やかな寝息が止んでしまう前に、私もこの手紙を書き終えることにしましょうか。
私がいつまでも、あなたの傍にいられますように。
敬具
『既読がつかないメッセージ』
夏が終わる。
冷たいような、暖かいような風が僕の頬を撫でる。
その風に葉がゆられ、帳のように僕を包み込んで、散っていく。
美しいと言えば美しいような、けど寂しいと言えば寂しいような。
僕は黙って、ただ並木道を歩く。
道端には紅葉が積もっていた。僕はその山から一枚手に取って、それとなく眺める。まるで吸い込まれてしまいそうな艶のある紅色に、恍惚する。
ふと、髪が揺れた。僕の手から紅葉が滑り落ちる。風に拐われ、生き物のように僕の横を通りすぎる。
追いかけることはしなかった。ただ、ぼんやりとそれを眺めていた。
前を向いて、また僕は歩き出す。
紅に染まる木々の間から、光が差し込んでいる。
木漏れ日が頬を照らす。紅るさも相まって、目眩がする。
このまま倒れられるのならば、どんなに幸せだろうか?
そう思いつつも、僕はただ、歩き続ける。
道脇のベンチに目が止まった。誰もいないベンチに、僕は腰掛ける。
木に百舌がとまっているのが見えた。キチキチ という鳴き声が僕の耳を通り抜け、頭の中で反響する。まるで話しかけられているかのようだ。
ふと、足元をみる。ベンチの下にはどんぐりが落ちていた。綺麗なもの、誰かに踏み潰されてしまったもの、虫にかじられて穴が空いてしまったもの。
僕はその一つを拾い上げ、ポケットにしまった。
満足したかのように足が勝手に動いて、僕は再び歩き出した。
秋風が頬を撫でる。紅葉が僕を包み込む。
夏が終わる。
『秋色』