私の当たり前
朝、制服に身をつつんで行きたくもない場所に行く。
よく分からない会話に愛想笑いを浮かべながら、退屈でノートにペンを走らせる。
聞きたくもない悪口に、それとなく相槌をうつ。
友達と言える友達は、こんな場所にはただ1人だっていない。
家に帰ってからは、家事を全て終わらせる。
洗濯物も、食器洗いも、晩御飯の用意も、叔母の介護も、全部全部1人。
私は、ひとりぼっちだ。それが、それが私の当たり前──
だった。
今は変わった。そう、はっきりと言える。
よく分からない話は、ちゃんと分からない、と言えるようになった。そうすれば、どんなものか教えてくれるから。
聞きたくもない悪口が始まりそうになった時は、それとなく理由をつけて離れることができるようになった。
ちゃんと話を聞いて、私も話す。そうすれば、友達と呼べる人ができた。
行きたくなかった場所は、そうして行きたい場所に変わった。
家では、きちんと手伝って欲しいと言えるようになった。
姉にも、弟にも、1人で全てこなすのは辛いと伝えると、手伝ってくれるようになった。
私は、ひとりぼっちじゃなくなった。
この当たり前は、とても大切な人達がくれた。相談に乗ってくれて、褒めてくれて、慰めてくれる。そんな、心の底から優しい人達が教えてくれた。私は、ひとりぼっちではないと。『僕達もいる、君の周りにだって、助けてくれる人がたくさんいるよ。だから、思ったことは声に出して言ってごらん?』と、そう、言ってくれた。
だから今の当たり前がある。
幸せな当たり前をくれたあの大切な人達は、今日も優しく話しかけてくれる。それに、たくさんたくさん、言いたい事、話したかった事を伝える。
今日も明日も、それが変わることはないだろう。
だって
これが、私の当たり前なのだから。
街の明かり
ふらふらと、少し覚束無い足取りで道を歩く男が1人。背中には、見ているだけでこちらも重く感じてしまいそうなほどの荷物が背負われている。
街を出て、久方ぶりに生まれ故郷の街へ帰ることになった男は、家族や街にいた頃親しかった者へとお土産を買っていたのだ。
街の人々は明るく陽気で、皆人あたりのいい人達であった。そんな街の人々を、男はとても好いていた。それ故に、このお土産の量になったのだ。
そうしてしばらく、ふら、ふらと歩いていると、何処か明るくなった事を感じ取る。ふっと顔を上げると、そこには。
男が帰ってくることを知り、親しかった者が皆で盛大に迎えよう、と、街の入口付近でランタンを片手に大きく手を振る姿があった。
男は驚きながらも、ふっと顔を綻ばせる。
一際大きく手を振るのは、友人の彼だろうか。そんな事を頭の隅で考えながら、重い荷物を背負い直し、軽く手を振り返す。
そして1歩、また1歩と、街の暖かな明かりへと、男は歩みを進めるのだった。
七夕
皆が願いを込めて、星にお願いする日。
そんな日に、僕は彼を連れて山に来ていた。人気のない、静寂だけが辺りを包み込む、そんな場所に。
そこから少し麓を見下ろしてみると、ちら、ちらと沢山の小さな灯りが、まるで星々のように煌めいている。きっと縁日の提灯の灯りなのだろう。
麓の縁日では今頃、皆が短冊に願いを込めて文字を綴り、笹に吊るしているに違いない。それぞれが、それぞれの願いを込めて。
だが、そんな事はどうでもいい。今は彼と2人の時間を楽しみたい。そう思いながら、そろ、と後ろを振り返る。
彼に無理を言って、無茶をさせてしまった自覚がある。彼は怒っていないだろうか、それに──体に支障が出ていないだろうか。
そう、うだうだと考え目線が下へ下へと沈んでいると彼の微かな笑い声が、静寂で満ちていた空間に響いた。
彼は、そっと僕へと近ずいて、僕の手を取って。心底嬉しそうな顔で、しかしどこか悲しげに微笑みながら、言った。
『最後に、綺麗な思い出を作ってくれて、ありがとう』
嫌だ。最後だなんて、そんな事言わないで。
そんなに、悲しい顔をしないで。
これからも、キミは───
彼は、病気だった。余命は残り僅か1ヶ月。僕はそんな事信じられなかった。……いや、信じたくなかった。
彼が大好きだった。他の誰よりも何よりも。
彼の為ならば、命でもなんでも捧げてやろうとさえ思えていた。
それなのに、もうほんの1ヶ月で会う事ができなくなる。
そう考えると、いてもたってもいられなかった。これまで、2人だけの思い出なんてなかったから。だから、口に出してしまった。
『ねぇ、七夕にさ。病院から抜け出して、星を見ない?』
断られると思っていた。馬鹿だなぁ、と笑い飛ばしてくれると思っていた。それなのに
『……いいね、それ。行こう!』
……それなのに、彼は。軽く了承してしまった。
頭では分かっていた。彼を病院から連れ出すなんて、あってはならない。でもその時。やっぱりやめよう、冗談だった、と、言えなかった。
ただただ、嬉しかった。2人だけの思い出を作る事が。
だが、今になって後悔している。
もしこれで彼の寿命がより縮んでしまっていたら?
もし帰り道で、容態が急変したら?
ありとあらゆる不安が浮かんで、止まらなかった。
しかし彼は、そんな僕の不安を欠片も気にする様子はなく、軽く僕の手を握りながらふわりと笑って、語り続ける。
ひとしきり話したかと思えば、彼の手が少し緩んで、問いが投げかけられた。
『ね、お願い事……なーぁに?』
まるでいたずらっ子のような、少し悪い笑みを浮かべて、彼は問うた。
お願い、お願い事?……そんなの、1つに決まってる。
僕は、僕の…お願い事は──
『きみと、いっしょに…これからも生きたい…っ』
酷く震えた、情けない声だった。
彼は、僕のお願いを聞いて、困ったように微笑んだ。
『いっしょ……ふふ、うん。僕も生きたい。君と、一緒に生きていたい。……でも、さ。そんなお願い事しちゃ、織姫と彦星が可哀想だよ、ばぁか』
そう言って、ぎゅっと僕を抱きしめたかと思うと、彼は小さな声で言った。
『……しにたくない……こわいよ、いやだ……』
何時も明るく、周りを照らすような声を発する彼からは想像もできないような弱々しい声に、僕は驚いた。
死なないで、そう言っても寿命は変わりはしない。分かってる。分かっているけれど──
『しなないで……お願い…』
今日は七夕、皆が願いを込めて、星にお願いをする日。
そんな日ならば、願ったっていいじゃないか。
織姫様、彦星様。お願いです。短冊に願いを吊るすことは出来なかったけれど。どうか、どうか──
この、心優しい彼を……殺さないでください。彼と、共に生きたいのです。だから、お願いします。
人気のない山奥で、互いに祈りを星に捧げる2人の姿を、星々は優しく見守り照らし続けていた。
まだ、夜は長い。彼等の強い願いはきっとこの夜、愛し合う星に届くことだろう。
友達との思い出は?
その言葉に、思わず腕に埋めていた顔を上げる。
思い出、思い出……自分には思い出と言えるほどの思い出はあっただろうか、と唯一の友の顔を思い浮かべながら思案する。
するとどうだろう、案外沢山出てくるものだ。それこそ自分でも驚くくらいに。
強く記憶に残るような出来事や、すぐ忘れてしまいそうななんてことの無い思い出まで、容易に思い出せてしまう。
それはただ自分の記憶力がいいからなのか、相手が彼だからなのかは分からない。
だが、一つだけはっきりと言えることは彼は自分にとって何より大切な友だとはっきり分かったと言うことだ。
その事実にほんの少し頬を緩ませながら、またも腕に顔を埋める。
あぁ、そうだ。この昼寝が終わったら、彼に会いに行ってみようか──。そんな事を考えつつ、さんさんと暖かな日差しを受けながら、重い瞼はゆったりと閉じてゆくのだった。