ひなた

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10/31/2023, 1:17:08 PM

 人は落ち込んだり悩みを抱えたりしたとき、自然と向き合うことで再び生が吹き込まれる。

 陽の光を浴びる。気晴らしに海や山に出かける。紅葉や満開の花は美しく、瑞々しい新緑は目にも心にも優しい。

 秘境という言葉を聞くと殊更に胸が躍るような気持ちになるのは私だけだろうか。普段接することのできる自然よりも遥かに新鮮で、清らかな生をもたらしてくれそうで。

 私が生まれたときから自然は周りにあり、それにまつわる思い出も多い。幼稚園に通っていた頃は、帰り道に祖母と寄り道をよくしたものだ。暖かい陽気の春には、川沿いの道を歩くとそこには花筏が見られ、徐々に暑くなり始めると蝉の鳴き声が聞こえ、木々の緑の鮮やかさが増す。祖母が上着を羽織る頃には、赤黄に染まった落葉で埋め尽くされた道の上を歩き、雪が降り始めればその白さに目を輝かせる。当時はもちろん大した感情は抱けていないだろうが、今は思い出すだけで心が洗い流されるように心地よい。

 あれから数年が経ち、ここ最近は大学に通うために東京に行く機会が増えた。人の少ない田舎でぬくぬくと育ってきたものだから、都会の喧騒はあまりに心臓に悪い。田舎の人からは人間らしさを全開に感じるが、こちらの人々には全くそれがない。誰もが感情を失ったかのように、下された命令にただ従うかのごとく行き交っている。恐ろしくも、都会は私からも感情を抜き去っていたようで、寧ろ無の状態で往来するのが当然と思うようになってから既に久しいが、悲しいとも思えなくなってしまっていた。

 人の流れに乗るようにして駅の改札を抜けると明るい声が一筋聞こえてくる。人混みの隙間をやっとの思いで通り抜けた先にあった看板には、幼稚園の文字があった。辺りはお世辞にも自然豊かとは言えない。大きな道路が園を取り囲み車の往来が激しく、少し離れたところには住宅もちらほら見えるが、どうも落ち着かない。それでも子供たちは愉快そうな声をあげて遊んでいる。

 動物園に動物を閉じ込めてしまうのは動物が可哀想だ、という議論を見たことがあるが、その前にこの環境をどうにかしてあげたいと思うのは不自然なことだろうか。私が見てきた理想郷はここにはない。私が見てきた人間らしさもここの大人には見当たらない。

 この子たちの理想郷は一体どうなってしまうのだろうか――。

10/30/2023, 11:45:13 AM

 私には毎年秋のこの時期になると思い出すことがある。中学3年の秋。もうすぐ冬にもなろうという日で、私は普段よりも厚着をして登校した。空気は徐々に冷たさを増し、朝早くからやっているお店から立ち昇る湯気をも羨ましく思うほどだった。確かまんじゅう屋さんだったと思うが、寒さ故に鼻も上手く機能してくれず、あまり匂いは分からなかった。強いて言えば、感じ取れたのは寒さの匂いくらいだ。

 体を震わせながら、やっとの思いで教室に辿り着いた。まだ誰も居ない教室は静かで寒く、一番乗りの私に酷く寂しさをもたらす。暖房は早く来た子が着けるという暗黙の了解、もしくはただ寒いから着けるだけのことかもしれないが、私もそれに倣ってすっかり冷え切ったスイッチを押す。勢いよく静寂を壊す着火音。それだけでもどこか温かい。

 受験も近づいてきていたこともあって、前までのように遊んだりゲームをしたりすることはほとんどなくなった。それに部活はとうに引退している。だったら朝の時間も有効に使おう、と思い至ったわけだ。私は朝に弱いタイプであるから、次に来た友達が私を見れば驚くに違いない。母親も驚いていたことだし、きっと声を上げるだろう。
 
 昨日のホームルームで、田舎に似合わぬ若い男の担任が「受験は夜やるものじゃない。だから夜に強くなっても仕方ないぞ。夜更かししちゃう子は徐々に朝早く起きる習慣をつけるように。」といつもは見せない真面目な顔で言っていたものだから、流石の私も折れざるを得なかった。

 草臥れた首を持ち上げて窓の外をふと見遣ると、空は雲に覆われ不気味な暗さをしていて、若干雪が降っているようにも見える。こういうところはやっぱり田舎だなと思うとともに、見慣れた光景にどこか安心感を覚える。

 暖房が効き始め、足の震えも収まってきた。そろそろ勉強をし始めよう。背負ってきたリュックに白い斑点がぽつぽつと、黒の生地に映えて見える。問題集と筆箱を取り出し、少し悴んだ手で問題を解き始めた、その時だった。

 教室のドアがガラガラと音を立てて開く。友達が来たんだな驚くに違いない、と心の中でニンマリしていたのだが、聞こえてきた声の低さに、逆にこちらが肩を跳ねさせられた。「おはよう!偉いじゃないか朝早くから。」

 でも今日は学校休みだぞ?

 担任は満面の笑みを浮かべこちらを見つめている。私は耳を疑った。頑張って早起きしたのに?寒い中頑張って歩いてきたのに?

 驚いた時には私の思惑とは裏腹に言葉も出ないようで、あ、えっと、とたじろぐことしかできなかった。

 その日は特別にそのまま教室で勉強させてもらえたが、以来早起きした記憶はない。早起きは三文の損だ。温かい布団が私を呼ぶままに、もう一睡することにする――。

10/29/2023, 12:50:08 PM

 生きていれば多くの選択肢が私達を待っている。
 
 朝何を食べよう、髪型やメイクはどうしよう、時間ができたからどこか気晴らしにでも行こうかな、夜は好きな配信者のライブを見ようかそれともたまにはゆっくり休もうか。大学はどこにしよう、就きたい職業はなんだろう、家はどこにしよう、ペットも飼いたいけれど犬にしようか猫にしようか。

 私が今まで下してきた選択の多くは、私を幸せたらしめなかった。だからか私は間違えたという言葉を自然と使ってしまうようで、古くからの友達にも、以前お付き合いしていた彼にも言われてしまったほどだ。

 ――あなたに会えたこと、今もこうして幸せに過ごしていること、全部が嬉しい。あなたを選んで正解だった。

 その幸せは長続きしなかった。

 あの時どうすればよかったのだろう。どうすれば正解だったのだろうか。最近はこうしてもうひとつの物語に思いを馳せることがいつもだ。後悔しても何も変わらないし、選択を間違えた結果に溢れたこの世界で、今もまた知らず知らずのうちに未来の後悔を生み続けているのかもしれない。

 ――今まで君が会ってきた人の中で、会って正解じゃなかった人なんていないと思う。中にはもちろん嫌いな人だっているかもしれないけれど、その人に会えていなかったら今の君じゃないんだし。

 彼の言葉にはどういうわけか説得力があった。過ごした年数は変わらないはずなのに、彼のほうが私よりも世界の多くを知っているような気がした。そしてその勘は当たっていた。私なんかよりもずっといい女を捕まえてこの家を去った。私のような狭い心と考えの女には興味がなくなったのだろう。以来一度も彼とは話していないし、連絡も取っていない。これからは友だちとして、という彼の提案を受け入れることができなかった。心を支えてくれていた人が失われ、暗闇に葬られた当時の私には。

 大学生の頃から一人暮らしをしていたこともあってそれなりに料理は作れたものの、人に振る舞う味とは言えなかった。彼のために一生懸命料理を練習して、彼が食べたいと話していた料理も挑戦して、そして彼は美味しい美味しいといっぱい食べてくれて、私は嬉しかった。今となっては振る舞う相手もいない。

 二人で買い物に行って、彼に似合いそうな服を見せると「おお、いいじゃんそれ」と笑顔で答える彼。二人揃って好きな匂いだったことに興奮してすぐに買ったシャンプー。服もシャンプーも行き場を失ったかのようにこの家に取り残されたままだ。いつ彼が戻ってきてもいいように。

 私はどこで間違えたのだろう。私のもうひとつの物語はどうなっているのだろう。今もまだ彼は私の隣にいるのだろうか。シャンプーの匂いは二人同じなのだろうか。私の料理は彼の口にも届いているのだろうか。

 私は今夜もまた彼が使っていた布団にひとり沈んでいく――。