当たり前はとうの昔に崩壊した。
過去の私は自分の楽しいが、皆も楽しいと信じてやまなかった。だから何をしても、怒られても、自分のせいではないと信じていた。
そんな中で転機は訪れた。小学4年生の頃、グループの友達に、私といても楽しくないと言われた。
その言葉で、私にとっての当たり前はガラガラと音を立て崩れ去ってしまった。
崩れた末に残ったのは疑いだ。私の言葉は楽しい?正しい?嫌な気持ちにさせている?不安で不安でたまらなくなった。
自信がなくうつむきがち、そんな人間が中学で馴染めるわけもなく、中学時代はあまり良い思い出はない。
あの時は苦しい気持ちや、自分への情けなさで今思い出しても辛い気持ちになる。でも、そんな過去がなければ良かった、なんて思わない。
あの一言が、私の当たり前を壊さなければ、自分の事ばかりを考えていた人間のままだったと思うから。
今日も、当たり前を疑いながら生きている。
私の当たり前
病院にはけっこうな頻度でお世話になっている。
入院中はやることがないので創作意欲が沸き、入院期間中は筆が乗り忙しいのだが、治療中・食事・就寝以外で手を止めるのは、夜来た時だ。
病室は高い位置にあることが多い。なので、窓の外からは街を見下ろせる。よく通っている病院は見晴らしがよく、特に消灯時間の後のデイルームは夜景を見るベストポジションだ。
夜更かしぎみな私も、退院したらあの光の中に戻る。ただ夜に起きているだけなのに、私があの無数にある内の光となるのだ。
そんな光を、誰かがきれいだなぁと思って眺めているかもしれないだなんて、なんだか不思議でちょっとこしょばがゆい気持ちになる。
締切の明かり、残業の明かり、眠りたくない明かり、眠れない明かり。ポジティブもマイナスも色んな明かりがあるけど、それは誰かにとってのきれいなものなのだ。
街の明かり
七夕、けっこう経験しているはずなのに短冊に何をお願いしたことがあるのか全く思い出せない。なんなら最近お願い自体もしていない。
今日のお題をみて、年間行事への興味関心が失せてフレッシュさの喪失を感じていたが、ついさっき私は思い立ち、映画の販券の裏に願い事を書いてコルクボードに貼った。
なんだか悔しくなったからだ、漫然と日々を過ごしている自分に対して。これはちょっとしたあがきなのである。
来年の七夕ではこのコルクボードを見て今日のことを思い出したい、私は七夕にこんなお願いをしていたなと。そうすれば少しだけ特別感を得られる気がする。
笹の葉も短冊もないけれど、これは行事にかこつけた自分なりの楽しみということにしよう。ごめんね笹の葉、短冊。覚えていたら来年会おう。
七夕
私は、自分の感想を言うのが恥ずかしい時期があった。
自分が何か間違ったことを言ったらどうしよう、見当違いな事を言って恥をかきたくない。
ある時。友達との会話の途中、私はそんな迷いが出てしまい、話を打ち切ってしまった。
気まずい空気が流れてしまったと困っていると、友達は私の手を引いた。驚いてついていくと、彼女は喫茶店に入りコーヒーを頼んだ。
彼女は私が話の続きを話すまでここで待つという。
何分、何十分過ぎただろうか。何も整理できていない私の言葉を彼女は聞いてくれた。
あの時、彼女が聞いてくれたお陰で私は今、ここに文章を書けている。
友達の思い出