セーター
昔、友達が着ていたミルクティ色のセーターは、おばあちゃんが編んでくれたものだと言っていた。 丁寧に編まれたとてもきれいで凝ったセーターだったと思う。
「すごいね! 手編みって分からなかったよ」と言うと、友達は随分誇らしげな顔をしてたっけ。
心も体も温かくしてくれるセーターだったね。ちょっとうらやましかったな。
まだ覚えているよ。
#98
落ちていく
落ちていく。雲に浮かぶような心地で。
また最後になった。薄暗いフロアで、自分のデスク周りだけが明るい。ため息をついて、一区切りついたファイルを保存すると、ノートパソコンの電源をオフにしてバッグに突っ込む。そのまま部屋を出てセキュリティカードで最終の戸締まりをした。
エレベーターの方へ向かおうとした時、後ろから足音がした。まだ誰か居たのか。
「今帰りか?」
振り向くと彼が居た。同期の彼は頼りになるし気が合う方だけど、今は会いたくなかった。目線を合わせずに尋ねる。
「お疲れ、まだ居たの? 最終だと思ってもう戸締まりしちゃったよ」
「いい。あっちの会議室に籠もってた。荷物は持ってる」
「そう」
彼は立ち上げてるプロジェクトが佳境らしいけど、深く尋ねる余裕が私にはない。私の質問に簡潔に答えた彼は、歩きながらこちらを伺うように言った。
「何かあった?」
目敏いんだから。舌打ちしたい気分で思った。だから会いたくなかったのに。大雑把なところもあるくせに、こういう時はよく気づく。
――このタイミングで聞かれたら愚痴りたくなるじゃない。
エレベーターホールに着いて、下へのボタンを押す。階数表示を見上げると、こんな時間だからすぐに来そうだ。
「◯さんにダメ出しされた。理想はわかるけど、もっと現実を見て無駄を減らせって。……残業多いし」
他にもいろいろ言われたけど。
「上はそう言うわな。お前、仕事遅くないしそんなに気にすんな」
彼はさらに言葉を継いだ。
「……いつもお前は、クライアントの要望や会社の利益や理想とかのバランスを考えてるよな。そういうのしんどいと思う。
でも理想とか理念って絶対に要るんだよ。それがなければ人は手段を選ばなくなる。そうして、できるやつほど多くの人間を傷つける」
彼はそこで少し笑った。
「らしくないか。ま、体壊すなよ」
耳から入った言葉がゆっくりと胸に染み込むような気がした。この人は分かってくれている。目の奥がじわっと緩んできた。だめだ泣くな。
エレベーターが来てドアが開いた。乗り込んで彼の指が閉のボタンを押した。大きな手だ。ドアが閉じて、エレベーターが動き始める。
私は彼に表情を見られないように外を眺めた。この高層ビルのエレベーターはガラス張りで街の景色がよく見える。遅くなった時、一人でエレベーターに乗ると、この景色をひとり占めしている気分になれる。
「いつも思うけど、こんな仕事帰りに見るにはもったいない夜景だよな」
「……そうだね」
「お前がそうやってもがいてるの、俺はいいと思ってる。そういうやつは信用できるから」
低く呟く声に思わず彼の方を見た。彼は私を見ずに窓の向こうを見ている。
彼の耳がほのかに赤く見えるのは気のせい? 胸の鼓動がますます速くなる。そんな事をあんたに言われたら――。
頬が熱くなるのが分かった。私は彼から目を逸らして、ガラス越しに輝くビルの群れを見る。
エレベーターが滑るように下りていく。まるで夜空に落ちていくみたいだと思った。雲に浮かぶような心地で。
#97
夫婦
週末のまとめ買いの帰り、目の前を黒い車が走っている。ナンバープレートが目に入る。
まただ、1122。いい夫婦の日。
「最近はちょっと減った気がするけど、やっぱりあのナンバープレート多いよねえ」
前を見ながら、隣の運転席に話しかけた。
「新婚の時に車買った人だろなあ」
「あれ、呼び出しの時とか困んないのかな。私、四桁しか覚えてないし」
他愛のない会話。
平凡な日常。
大事な娘。
それは私が結婚で得たもの。
以前、今はもう亡くなった伯父に、夫はどんな人か尋ねられたことがある。その時、頭に浮かんだことはたくさんあったけれど、結局私は「おもしろい人です……」としか答えられなかった。伯父は笑った。
「それはいいね。それが一番だよ」
商売上手で苦労人で、口喧しい伯父が、やけに嬉しそうに言ってくれた。時々思い出してはその言葉に力づけてもらっている。
いろいろあったけど、結婚は悪くないと思うようになった。だから来世まで一緒に、とは思わないけれど、この世では最後までよろしく。
娘に伝えるなら、経済的な自立は大事だと言っておきたい。
いつでも離れられるからこそ、もう少し頑張ってみようと私は思えたし、少なくとも私たちは対等でいられた気がする。
#96
どうすればいいの?
「着いたよ」
駅前のロータリーに車を停めた。街路樹に飾り付けられたイルミネーションが、黄昏時にきらきらと光り始めている。
クリスマスには気が早いだろと、冷えた気分でフロントガラス越しの光を眺めた。
「どうすればいいの?」
助手席で俯いた彼女が呟く。膝の上に置いた手を強く握り締めている。その手に触れたくても触れられないのに。
なのに、俺に聞くの?
俺に聞いたら、答えは一択。
今すぐアクセル踏んで、どこかに連れて行っちゃうけど。彼の手が届かないところに。
それでもいいの?
きみを泣かせることになってもいい。
どこか遠くへ。
#95
宝物
銀(しろかね)も金(くがね)も玉もなにせむに まされる宝 子にしかめやも
万葉集 山上憶良
何よりの宝だと我が子を大切に思う気持ちを、これほど素直に詠んだ歌があるだろうか。
遥か千年以上も昔の人たちだって今の私たちと変わらない。同じような感情を持って生きていたのだと感じさせてくれる。
人間っていいなと胸の中が温かくなる歌だ。
だけど、こんなにも子を愛しむ親がいる一方で、目も耳も塞ぎたくなるような虐待も起きる。どちらも同じ人間だ。
良いものばかりじゃないのは、よく分かっている。
悪いものばかりじゃないと言い切りたいのに。
どうか子どもたちが慈しまれて育ちますように。
#94