百加

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落ちていく


 落ちていく。雲に浮かぶような心地で。

 また最後になった。薄暗いフロアで、自分のデスク周りだけが明るい。ため息をついて、一区切りついたファイルを保存すると、ノートパソコンの電源をオフにしてバッグに突っ込む。そのまま部屋を出てセキュリティカードで最終の戸締まりをした。

 エレベーターの方へ向かおうとした時、後ろから足音がした。まだ誰か居たのか。
「今帰りか?」
 振り向くと彼が居た。同期の彼は頼りになるし気が合う方だけど、今は会いたくなかった。目線を合わせずに尋ねる。
「お疲れ、まだ居たの? 最終だと思ってもう戸締まりしちゃったよ」
「いい。あっちの会議室に籠もってた。荷物は持ってる」
「そう」
 彼は立ち上げてるプロジェクトが佳境らしいけど、深く尋ねる余裕が私にはない。私の質問に簡潔に答えた彼は、歩きながらこちらを伺うように言った。
「何かあった?」
 目敏いんだから。舌打ちしたい気分で思った。だから会いたくなかったのに。大雑把なところもあるくせに、こういう時はよく気づく。
――このタイミングで聞かれたら愚痴りたくなるじゃない。
 エレベーターホールに着いて、下へのボタンを押す。階数表示を見上げると、こんな時間だからすぐに来そうだ。

「◯さんにダメ出しされた。理想はわかるけど、もっと現実を見て無駄を減らせって。……残業多いし」
 他にもいろいろ言われたけど。

「上はそう言うわな。お前、仕事遅くないしそんなに気にすんな」
 彼はさらに言葉を継いだ。
「……いつもお前は、クライアントの要望や会社の利益や理想とかのバランスを考えてるよな。そういうのしんどいと思う。
 でも理想とか理念って絶対に要るんだよ。それがなければ人は手段を選ばなくなる。そうして、できるやつほど多くの人間を傷つける」

 彼はそこで少し笑った。
「らしくないか。ま、体壊すなよ」
 耳から入った言葉がゆっくりと胸に染み込むような気がした。この人は分かってくれている。目の奥がじわっと緩んできた。だめだ泣くな。

 エレベーターが来てドアが開いた。乗り込んで彼の指が閉のボタンを押した。大きな手だ。ドアが閉じて、エレベーターが動き始める。
 私は彼に表情を見られないように外を眺めた。この高層ビルのエレベーターはガラス張りで街の景色がよく見える。遅くなった時、一人でエレベーターに乗ると、この景色をひとり占めしている気分になれる。

「いつも思うけど、こんな仕事帰りに見るにはもったいない夜景だよな」
「……そうだね」
「お前がそうやってもがいてるの、俺はいいと思ってる。そういうやつは信用できるから」
 低く呟く声に思わず彼の方を見た。彼は私を見ずに窓の向こうを見ている。

 彼の耳がほのかに赤く見えるのは気のせい? 胸の鼓動がますます速くなる。そんな事をあんたに言われたら――。
 頬が熱くなるのが分かった。私は彼から目を逸らして、ガラス越しに輝くビルの群れを見る。
 エレベーターが滑るように下りていく。まるで夜空に落ちていくみたいだと思った。雲に浮かぶような心地で。



#97

11/24/2023, 9:30:26 AM