権力者タワーの三階廊下の突き当たりには、大きな大きな全身鏡がある。大きな大きな全身鏡。金色の枠に囲まれていて、なんだかとても高級感があって、権力者タワーの三階なんてところに置くのはちょこっとだけ雰囲気に合っていないような気がする。
権力者タワーの三階というのは特に持ち場を持っていない権力者候補だったり、迷い子から権力者に上がったばかりの子だったり、どこから現れたか、よく分からないけれど、とりあえず、権力者になるべき子が住むためのフロアになっている。ボクも演奏者君がこの世界に来るまではそこのフロアで暮らしていた。
要するに、全然重要性もない子達が住んでいるわけでそんなところにある金枠の全身鏡なんて、なんだかとっても、見劣りしてしまうような気がしていた。
もっともっと上のフロアに置いたり、権力者の中でも偉い人がよく会議をしているような部屋に置いたりしたらいいんじゃないかな、なんて思いながら以前のボクは、その鏡のことを見ていたのだ。
そのことを思い出した、僕は偉い人に報告書を渡すついでに、またその鏡がそこにあるのかなんて気になって行ってみることにした。
全身鏡はそこにあった。ボクが住んでいたときに見ていた鏡と寸分たがわずそこにあったのだ。
まぁ、一生もう動かないんだろうなって思いながらその場を立ち去ろうとした時に、音が聞こえた。
よくわからない音だった。聞いたことがない音だった。それでも頑張って言葉をひねり出すならば何かに吸い込まれたようなまたは何かから吐き出されたような、そんな音だった。
周りをキョロキョロと見渡した時、鏡から人が出てきているのが見えた。ひどく怯えたような様子で、こちらの世界に箸を踏み出して、そのまま階段の方に走っていってしまった。
見たことがない人だった。でも、何なのかはわかる気がした。あれは迷い子なのかもしれない。ボクらが統治してる場所に訪れてくるのではない、洗脳を確実とするような、そんなもう確実にこの世界に引き入れることを決めている迷い子なのかもしれない。
前に演奏者くんが言っていたのを思い出した、どう考えても、ボクは住人を増やすことは少ないのに、住人の数はどんどん増えているような気がする、それはなぜかと聞かれたんだ。
その時は、他の権力者が迷い子を洗脳して住人に加えているからだと思っていたけれどユートピアを直接管理するような僕らだけでは、住人は、到底増やせないと思って、直接偉い人達がこの世界に住人として、招き入れているのかもしれないなんて思ってしまった。
(死ネタ)
権力者が死んでから数日経って、数ヶ月経って、数年が経った。
そんだけの日数が経てば『権力者』が権力者ではなかったことくらい簡単に理解出来て。ついでに彼女だけが死ぬ感じではなく、僕以外の関わったやつらはみんな急に死んでは入れ替わっていった。
そろそろ彼女との思い出が薄れてきて、だんだん声も顔も分からなくなってきたというのに、彼女がいつも身につけていた髪留めのリボンだけどうしても捨てられなかった。
「ピアノ弾けるようになりたい」
彼女がそう言い出したのはいつのことだっただろうか。多分、いつかの演奏会後だったと思う。
そう言われたとき、僕は嬉しくてすぐに頷いたのだ。
そこからまいにち、少しずつ少しずつ練習して、彼女はどんどんピアノが上手くなっていった。それはピアノを弾く仲間ができたという事実においては、とても嬉しくて、彼女と音楽を奏であえるようになったということに喜びを感じて幸せだった。
ある日、迷い子がやってきた。その時はちょうど権力者がピアノを弾いている最中だった。
迷い子は権力者の奏でるピアノの音色をいたく気に入ったらしく、迷い子は、それを決め手にこの世界の住人になることを決めた。
彼女は迷い子を洗脳しなかった。なぜだかは分からない。ただそう決めた日だけは、彼女の姿がボロボロだったような気がした。
権力者は僕のためではなく、迷い子のために、ピアノを弾くようになった。僕の演奏を聴くことではなく、自分の演奏を聴かせることに喜びを感じるようになった。
嬉しかった。彼女が自分でピアノを弾くことを楽しいと思っていてくれて。そしてそんな風に思わせられるようになった自分に少しだけ誇らしさも覚えた。
でも、同時に少しだけ苦しかった。僕と一緒にピアノを弾くことに喜びを感じていた彼女は、僕と一緒にではなく、迷い子のためだけにピアノを弾くようになってしまったことが。
それは醜い嫉妬心にとりつかれたようで、そんな自分が少しだけ嫌になると同時に、権力者に独占欲を抱いていたことに、今更気づいてしまった。
(現パロ)
夜の海に行く。そこの事実だけを切り取るとまるで自殺しに行くみたいな感じがしてくる。でもそんなことは、決してない。ただ海を見に来ただけなのだ。
家からチャリで数分のところに海がある。静かで、オンシーズンの昼でも特に人で賑わってはいない、そんな海。夜は昼にも増して、静かで波の音だけが外に響いている状況だ。
考え事をしたい時は、いつも来ている。明日のテストが憂鬱だとか、誰かのことが好きでたまらないとか、不安や悩みが尽きないとか、なんとなく気分が落ちているとか。
今日来たのは彼についてだった。
ユートピアで演奏者なんて名乗っていた彼。神様だって言ってたから、ボクみたいに人間界に転生することはないかもしれないけれど、それでも記憶にある前世の中で好きだった人のことなんて、全然忘れられるはずがなかった。
そもそも前世と言えるかどうかもよくわからない。生まれ変わったのだか、それともただユートピアから逃れて、人間界に降り立ったのか。
ただ一つ言えるのはどれだけユートピアにいた期間が遠くなってしまったとしても演奏者くんのことは忘れられないし、好きだって気持ちもなくならないってことだけだ。
(現パロ)
「あっつー……」
「…………そうだね、僕もそう思う」
ボクの言葉に対して、演奏者君がそんな曖昧な言葉を吐いた。なんとなく話が噛み合ってないような気がするのは、暑さに頭がやられてるからかもしれない。
「バスで帰るの、嫌だな……」
「僕は自転車だよ」
自慢だろう、と受け取れるような感じで彼は言った。でも自転車に乗っているからって涼しいんだろうか、確かに、僕はバスを待たなきゃいけないからその間の時間ってのは凄く暑い。でもバスに乗ってしまえばクーラーが効いててとても涼しい。
その点自転車には、クーラー機能なんてない。漕いだ後は暑いなんてことも聞いたことがある。ということは全然自慢じゃないんじゃないだろうか?
「…………涼しいの?」
「涼しいよ。自転車を漕いでいると風と一体になっているという感じがする。それは結構涼しいんだ」
「………………止まったら?」
ボクがそう問いかけると、彼は目をそらした。要するにそういうことだ。
「……………………自転車に乗って海まで行きたいね」
「………………いつかね」
ボクはそう答えた。