「体の健康だけじゃなくて、心の健康にも気遣っているかい?」
急にそんなことを言われたことを思い出した。心の健康って何なんだろうか、よくわからない。でも、演奏者くんが、僕のことを気遣ってくれてるんだろうなってことはなんとなく伝わった。
彼は優しい。ボクは敵なのに気遣ってくれるところとか、なんだかんだあんまり僕のこと憎んでなさそうなところとか。多分善人側の人間なんだろうなってことよく伝わってくる。そこが憎たらしいとも言う。
ボクは善人じゃない。迷い子を洗脳してるところとか特にそうだ。この世界にとっては善人かもしれない。正しいことをしているかもしれない。でも多分常識的に見たら、全然正しいことじゃないことぐらい僕にだってわかっている。
もしかしたらこんな風に考えてるのって、心の健康が損なわれてるってことなのかも知れないなんて、ボクはそう思ってしまった。
「君の奏でる音楽が好きだよ」
いつもの演奏会の後、彼女がそう言った。
「……ありがとう」
いつも言われてるその言葉。それでも慣れないのは、いつも冗談の方が言うことが多い彼女が、本心から思っているんだと手に取るようにわかる態度で言葉を紡ぐから。
「…………曲が好きなのかい」
「……ううん。君の奏でる音楽が好き」
でも、いつも『奏でる音楽が好き』としか言ってくれなくて、なんとなく腑に落ちない。
「…………曲は好きかい」
「好きだよ。君が演奏する曲はどれも素敵だから」
「…………弾いている姿を見るのは好きかい」
「好きだよ。ボクが押しても綺麗な音色にならないけれど、君が弾くと絶対綺麗な音色になるから魔法みたいで好き」
「………………ピアノは好きかい」
「好きだよ。見た目はちょっとだけ怖いけど、とっても繊細な音を奏でるから」
「………………そのどれかが一番好きなのかい?」
「ううん、君の奏でる音楽が一番好きだよ」
分からない。何が好きなのか、僕には。
そう思った時、彼女は微笑んで言った。
「別に曲じゃなくてもいい。綺麗な音色を繊細な手つきで楽しそうに弾いてる姿を見てるのが好きで、紡ぎ出される音楽が好きなだけだから」
…………なんとなく、照れくさくなった。
権力者が麦わら帽子を被っているのを発見した。
「やぁ、権力者。どうしたんだい、その帽子は」
そう声をかけると笑顔で答えた。
「えへへ、可愛いでしょ。貰ったんだ」
「……? 誰にだい」
僕と彼女以外にこの世界にいるのは住人だけだが、住人にそもそも意思はない。迷い子でも来てたのだろうか。
「それはもちろん…………あ」
嬉しそうに口を開いた彼女は途中で動きを止めた。ハッとした顔でこちらを見つめる。
「…………えっと」
気まずそうな顔をしながら必死に目を泳がせていて、明らかに口を滑らしてしまったらしいことがバレバレだった。
「…………まぁ、いいよ。素敵な帽子であることに変わりはない」
僕はそう言って微笑んだ。
「……あはは」
気まずそうに彼女は笑った。
僕には言ってはいけないことがあることは知っているけど、無闇に言及させるつもりはない。本当に確信を持ってからそれについて聞くつもりだから。
だから僕は何も聞かなかったことにした。
死んでしまったらどこに行くのだろうと、そんなことを考えたことがある。でもユートピアにいる今となってはもう死んだなんていう事項は残念ながら訪れないのかもしれない。
そんなことを思っていたある日、演奏者くんが元天使様であるということを知った。
「……………………マジで?」
「ああ、そうだ」
とくに驚くべきことでもない、なんて言うふうに彼は言った。
「……死んだ人もそこにいるの?」
「…………いや、そんなことは」
「…………え?」
「死んだ人はまた別のところに行く。別に僕らが住んでいた場所が人間としての終点ってわけじゃない」
彼はそう言って笑った。
「でも、きみは例え人間だったとしても僕の住んでいた場所まで連れていくよ。そうしたいと、思ってるから」
初心に立ち直ってみれば、彼とボクとの出会いは演奏者としての彼と権力者としてのボクのいわば対立構造だった訳だ。
なのに気がついてみたら、もう既に仲のいい関係になっていることは言わずもがなである。
毎日毎日、彼が弾くピアノの演奏を聞いて、仲良く会話をして、まるでそれは友達のようで、とてもじゃないけれど対立しているといえないようなものである。
でもそれでいいんじゃないかと、今は思えてしまうほどにボクは彼のことを好きだったのだ。
変な意味じゃない、恋愛感情でも何でもない。 ただ彼のことをまるで友達のように感じていただけだ。権力者として、それはとても正しくないことだけれども、それでもボクは今はこれでいいと思っている。
本当は対立しなくてはいけないかもしれないけれど、ボクは彼のことが好きで、友達だと思っていて、今はそれでいいんじゃないかと。
権力者集団に命令されたこととは、今の結果と真逆かもしれないけれど、それでも、うまくいかなくてもいいんじゃないかと今はそう思っている。