彼に褒めてもらえるように、出来る限りのおめかしを。
彼と素敵な時間を過ごす為に、真心を込めたお料理を。
彼との話が途切れないように、趣味の予習はばっちり。
あとは、何をすればいいのかしら。
初めての事でドキドキが止まらないの。
正解がないなんて、とっても意地悪な問題ね。
それでも嫌じゃないのは、すごく幸せだから。
何度も時計を確認して、何度も鏡を見返す。
早く彼に会いたいという気持ちと、
まだ心の準備が出来ていない気持ちとが葛藤する。
落ち着け私、安心して。
今日はきっと、人生で一番特別な夜になるから。
消えてくれ
貴方が私に言った、最初で最後の言葉。
何度も貴方に会いに行ったのに、
毎日貴方だけを見ていたのに、
私の愛は、届いていなかった。
貴方の家で毎日晩御飯を作っていたのは私なのに。
貴方に視線を送る邪魔な女は私が追い払ったのに。
貴方はその女の手を取って、私の手を振り払った。
認めて貰えない愛は、持っていたって意味が無い。
愛されない私は、生きていたって邪魔なだけよね。
だけど確かに私は貴方を愛していて、愛されたかった。
どうかそれだけは、覚えていて欲しいの。
雪の降る暗い夜の中、独り海を目指す。
貴方に初めて出会った場所。貴方を好きになった場所。
この海に二人で身を流すのが夢だったのだけど、
貴方の願いはこれでは無いのでしょう。
貴方の幸せを望んでいるの、壊す事など出来やしない。
私の事を嫌いになってもいいわ。恨んだっていい。
だから、絶対に忘れないで。最期のお願いよ。
海の底へと沈んでいく。貴方への愛を握りしめて。
君に会いたくて、唇に紅を引いてみる。
明るくなった自分の顔、少しは君に釣り合うかな。
小さく聞こえた褒め言葉が、私の耳を赤く染めた。
君に会いたくて、赤い腕輪を付けて行く。
君から貰った初めての贈り物。
自分で言うのもなんだけど、私にとっても似合ってる。
君に会いたくて、赤い靴を履いてみる。
ヒールが高くて何度も転びそうになっちゃったけど、
君はその度に微笑んで、私を支えてくれた。
君に逢いたくて、首に赤い線を引いた。
何も言わずに逝ってしまったから、
お洒落をする余裕が無かったの。これで許してね。
病弱な彼女の趣味は、日記をつけるというものだった。
ごく在り来りなその趣味だったが、
彼女はその趣味に没頭していた。
何処へ行くにも、何をするにも日記と一緒。
食べたものの味から行ったところの景色まで、
全て文字だけで表す。写真や絵はひとつもなかった。
その日見た夢から考えていた事まで、
ひとつも零さずに書き記す。
記録と呼ぶには細すぎるものだった。
彼女はこの趣味を誰にも話さなかった。
常に持ち歩いているというのに、
絶対に人前では開かない。書く時も然り。
鍵をかけられ、誰にも見られなかった彼女の記憶は、
彼女がこの世から旅立った後に見つかった。
症状が少しづつ確実に悪化していく生々しい表現。
何度も死を想像し、その度に固めたであろう覚悟。
彼女を知らない人でも容易に理解出来てしまうそれは、
まさに彼女の記憶であり、彼女の一日一日だった。
彼女の日記に死に様は書かれていない。
再び閉ざされた日記の中で、彼女は生き続けている。
「もう、終わりにしようか。」
目を合わせずに告げられた言葉が腹の底を冷やす。
分かっていた。いつか振られるのだろうと。
段々と合わなくなっていく視線。
理由をつけては断られたデート。
繋がらなくなった電話とメール。
彼からの言葉は、何時からか温もりを失っていた。
この言葉に答えたら、私達は二度と会えない。
そう考えると、このまま時を止めてしまいたくなった。
木枯らしが私たちの間を走り抜ける。
いつの間に離れていたのだろう。
かつて力強く握られていた左手は、
今も貴方の温度を求めているのに。