信号待ちで並ぶ時はいつもヘルメットを少しあげる。
隙間からふわと香る甘い香りが舞い込み、目をそちらに向ける。
金木犀は在るだけで嬉しくなる。自然の甘さが1番好きなので、同じ香りを謳うハンドクリームやヘアオイルを買ってはなんか違うなと思いがちだけど。冬が来たね。
行かないで、と願ったのに母は仕事に行ってしまった。
熱のある身体で揺れる天井を見る。学校に休みの連絡を入れてもらったら少し楽になった。私はふらふらと立ち上がり母の部屋に行く。押し入れに体を滑らせながら、前に見つけた古い日記を手にとった。
考え直そうよ。僕たちの子供のためにも一緒に居たい。
お願いだから話しましょう。ゆっくりでいいから。
と書かれた手紙がその日記に挟んであることを私は知っていた。
それを書いた私の父は一緒に暮らしていないけれど、幼い子供にお願いするように優しく柔らかな言葉で必死に母を繋ぎ止める父の熱意が伝わってきて幼いながらに羨ましかった。
20になったら会いに行きたいと思っていたけれど結局は会いに行っていない。血を分けた1人が今もどこかにいて、もしかしたら腹の違う妹や弟がいるかもしれない。考える度に足が床から離れるような不思議な気持ちになる。もし新しい家族と過ごしているなら、自分の子を見つめながら私に思いを馳せることはあるのだろうか。まぁそれはその子達に悪いか。
会った時の挨拶を真剣に考えていた時期もあった。
私とその人は喫茶店とかで会って、敬語を使いながら今までの話をする。母が元気なことを伝えるか、本当は今の父とも上手くいかずずっと大変だったことを伝えるかを悩みながら言葉を紡ぐ。2人とも珈琲を頼んでいて、軽食も頼んでいいよとか、そういうことを言ったりして、今の家族の話や仕事の話をする。
いつか会ったら父と呼べるのだろうか。
お母さん、お父さんに夢ばかり抱いてごめん。
けれど字の綺麗な差出人に、私と目が似てる人に会ってみたいなと思うことは許して。
けたたましいアラームとともに目が覚める。
朝だ、仕事だ、起きなければ。
6時20分に設定しているアラームは、一旦目を覚ましておくための予備みたいなもので、本当なら6時50分まで眠れることを私は知っている。
ただこのアラームを無視すると永遠に起きれなくなるのでとりあえずアラームを止め、そのまま携帯を眺める。携帯を眺め、目を瞑り、このままではいけないとまた携帯を眺め、半強制的に目を開ける。
最近は凍えるように寒く、それもあって中々布団から出られない。一体こんな朝を何度繰り返していくのだろう。
社会人初めての冬が始まっていく。
地元遠いんだ。お母さん寂しいんじゃない?と言われる度、そうですねという言葉と共に浮かべた笑顔が固くなる。
良い家庭が光なら私の家はなんなんだろう。
暴力は振るわれなかった。習い事や進学もさせてくれた。
ただ、ご飯を家族揃って食べた事だけがなかった。
楽しい会話などは外出している時だけで、そもそも会うことがない。会わないから知らない、気付かない。話さないから喧嘩もしない。無関心と無傷の中で生きてきた私は、あ、やっぱり無傷ではないか。見えない傷はきっと胸の中についている。
家を出た今、毎日一人で食べているご飯の方が不思議と味がする。
こんな心の中を知って欲しいわけではない。光と影、白と黒、良い家庭と悪い家庭、きっと本当はみんなどっちつかずで本人にしか分からない地獄がある。
そんなことを思いながらへらっと笑った私の顔を声をかけてきた相手は満足そうに見ていた。
そして、いつの間にか彼女は家を出ていった。
シンクに溜まる皿、畳まれず残る洗濯物。掃除機くらいかけようかと重い腰を上げてもそれは充電切れで、電源コードを探すのも億劫になりやめてしまう。
カーペットの上にごろりと転がり床に落ちていた髪を拾う。
髪の毛ってこんなに落ちてるのかと少し驚き、それを意識しないでいれた生活を思って目を閉じる。
大事にしないと、と思う気持ちは月日と共に薄れていた。
彼女が目の前で出ていったとしてもきっと俺は追いかけない。
急いで飛び出して抱きしめて謝る、みたいな芝居をうつ元気もなかった。だから黙って行ってしまったんだろうな。
不意にガチャとドアが開き、寝転びながら目をやるとそこには部屋に入らずに佇んでいる彼女が居た。
芝居は彼女の方からうつようになっていた。
ゆっくりと起き上がり両手を広げる。
涙を滲ませながら駆けてくる彼女の手にはアンティークのフォークが握られていた。