「同情を買う」という言葉があるが、なぜ「同情を売る」とは言わないのだろうか。
まず、「同情を買う」という行為は、周囲に同情してもらうように計らうというニュアンスがあるように感じる。でも、それならば「買う」というのはおかしい。どちらかといえば「同情の押し売り」の方がしっくりくる気がする。また、「買う」という行為には何かしらを払うという行為が必要であるのに、「同情を買う」人間は大体周りからの同情を享受するのみで、何かを他人に与えようとする様子は見られないことがほとんどである。
「同情を買う」というから、周囲の人間はたいてい迷惑しているというのに、なんとなく許される感じになるのではないだろうか。やはり、「同情の押し売り」に改名するべきなのではないかしら。
漫画などにおいて、針が動くときのカチリカチリという音で静寂を表現することは多い。よく考えてみれば不思議なものだ。もともと静寂という言葉は「なんの物音もしない」ことを表しているものであるのに、時計の針が動く音などまさに物音である。そう思うと、この表現は「針の音が聞こえる」という状況自体に着目しているものであると考えられる。
時計の針が動く音は本来とても小さい。それこそ、人が動く音などには到底敵わないものだ。それなのにその時その人は時計の針の音を聞いている、これこそがこの表現の肝であると私は思う。「静寂」と書かずに状況から「静寂」を読者に想像させる。それこそが表現のおもしろいところであるが、一朝一夕で身につくようなものでないことも事実だ。是非とも極めたいものである。
: 時計の針
「溢れる」を『こぼれる』と読むか『あふれる』と読むかで随分語感が違う。『こぼれる』と読んだときはなんだかマイナスな感じで、うわっこぼしちゃったよ的な突然感というか、予想していなかったよ感がある。
それに対して『あふれる』はプラスな感じだ。ふわふわと少しずつ積み重なり続けていたものがやわっと外に出る、みたいな感じ。
コップの水を想像してみても、『こぼれる』だとドバッと出た感じがするし、『あふれる』だと表面張力の限界を超えてじわじわと流れ出したみたいな感じがする。
言葉っておもしろい。みなさんは今回のお題をどちらの読み方で読んだのでしょうか。
: 溢れる気持ち
千年先まで生き続けたいかと問われたら答えはNOであるが、千年先を見たいかと問われれば、それはYESだ。百年もかからずスマートフォンが "当たり前" になる世界である。千年も経ったら今度はなにが "当たり前" になっているのだろう。もしかしたらAIと結婚する世界になっているかもしれない。実際すでにボーカロイドと結婚した人だっているのだ、AIに『人権』が問われるようになる世界もきっとそう遠くない。
変化は怖いようで、とてもおもしろいものだ。少なくとも退屈はしない。人工知能と人間が手を組んだら一体どこまでいけるのだろうか。さて、新しい世界に向けてなにを楽しんでしまおう。
: 1000年先も
「いやー!この前道路のど真ん中ですっ転んでさ!高校生にもなって何もないところで転ぶことある!?恥ずかしすぎて死ぬかおもたわ!!」
といったときに「え〜!大丈夫?怪我とかしてない??」と返されたときの適切な反応を募集しています。
こちとら、ちょっとはウケるかなと思って、なんなら笑ってもらうことでこの恥ずかしさも少しは昇華されるかもなんて浅ましい期待をもって言っているというのに、そんなただ優しい言葉をかけられてしまうと笑いも取れなかったという事実が追加されて余裕で二度死ねる。
「あ、あは、うん…だいじょぶ」と返す以外に自分を守る方法はあるのだろうか。いや、ほんとうにおもしろい人はここでめげずに貪欲に笑いをとりにいくのでしょうか。ぜひぜひともご教授願いたいものであります。
: 優しさ