彼は博識だ。
自分が知らない世界を、想像もつかないほどに沢山知っている。
そして零す言葉の節々にその片鱗は紛れ込んでいるのだ。
無意識に紛れ込んだそれを見つける度に誇らしさを感じながら、今日も彼の世界を少しずつ分けてもらう。
同じ景色を見ることは出来ないけれど、少しでも君の目線に近づきたいから。
【誇らしさ】
深夜、彼と抜け出してツーリングに行ったことがある。
そこで初めて夜の海を見た。
何もかも飲み込んでしまいそうな、昼間は隠れている恐ろしさ。
暗くて深い波の上に月の光だけがゆらゆらと輝いていて。
聞こえてくるのは横を通り過ぎる風と波の満ち引き、バイクが放つ騒音。
肌寒いのにどこか心地よいその温度は、月が綺麗な夜空を見ると今でも思い出す。
【夜の海】
本当に稀だが、ふとどこからかバイオリンの音色が聞こえてくることがある。
優しい音色が少し控えめに響くその時間は、長くても僅か一時間ほどで終わってしまう。
きっと彼の元へ直接出向き頼み込めば弾いてくれるのだろう。
だがそれは何か違う。
余計なことは何も考えず、彼自身の思うがままに演奏しているからこそ、この音色は完成しているのだと。
だから今日も近くの壁に寄りかかり、微かに聞こえる君の奏でる音楽をたぐり寄せるのだ。
【君の奏でる音楽】
日も暮れてそろそろ夕飯時。
今日は彼が食事の当番だ。
献立が決まらないのか食べたい物を聞いてくる彼に、自分は迷わず答える。
ずっと楽しみにしていたこの瞬間。
答えは最初から決まっていた。
「とろとろのオムライスがいいな」
【最初から決まっていた】
ぽかぽかとした陽気が心地よいお散歩日和のとある日。
彼の提案で向かったのは水辺の公園だった。
水の流れる優しい音と共に、木漏れ日の中を黒猫が悠々と歩いている。
「君もお散歩?」
そう笑った彼が近付くと猫は一瞬立ち止まり、こちらを見るとゆっくり反対側へ行ってしまった。
柔らかな太陽の光を反射してきらきらと輝く湖の中央に立つ小さな塔。
そこから正午を知らせる鐘の音が聞こえてくる。
お昼ご飯、遅れちゃうよ。
【太陽】