Theme:寂しさ
子どもの頃「ウサギは寂しいと死んでしまう」という都市伝説を聞いた。
今ならそんなことあるはずがないと笑い飛ばしてしまうが、当時の私は信じていた。
小学校の飼育小屋でウサギが飼われていた。
子どもの頃の私は彼ら/彼女らが寂しいと思わないように、休み時間の度に話しかけに行っていた。
放課後は校庭から他の児童の姿が消えてしまうまで、飼育小屋の横にしゃがんでウサギと一緒に過ごしていた。
「彼ら/彼女らが寂しい思いをしないように、私が助けてあげなくちゃ」
当時の私はそんな使命感に駆られていたのかもしれない。
今思えば、それは逆だ。
毎日のように飼育小屋に行っていたのは、私が寂しかったからなのだ。
学校に馴染めず友達もいなかった私に、側にいることを許してくれたのはウサギ達の方だった。
幼いプライドが「ウサギのためだから」と誤魔化していたけれど、本当は他でもない私の寂しさを紛らわせるためだった。
休み時間に楽しそうに話すクラスメートを見たくなかったから。
放課後に皆がお喋りをしながら帰る中で一人で帰るのは惨めだったから。
少しは社交性を身に付けた今の私は、ウサギの小さなぬいぐるみをバッグに付けて持ち歩いている。
まだ寂しがり屋はなおっていないようだ。
Theme:冬は一緒に
「ウィンター・ブルー」という症状がある。
秋から冬にかけて憂うつな気持ちが強くなったり、過眠や過食の傾向が強くなったりするそうだ。
所謂「冬季うつ病」「季節性の反復型うつ病」のことだ。
日が短くなる、つまり日光を浴びる時間が短くなることが原因らしい。
日常生活に支障が出るほどでなくても、誰でもウィンター・ブルーの傾向が現れることがあるそうだ。
この時期になると私は何となく寂しさや憂うつさを感じることがある。もしかすると、他の人も同じなのかもしれない。
ウィンター・ブルーの症状を和らげるには、積極的に日を浴びることやなるべく人と繋がっていることが効果的らしい。
そういえば、たまたまなのだろうけど、秋から冬は行事が多いような気がする。
ハロウィンやクリスマス、大晦日に正月。
大騒ぎすることはあまり好きではない私でも、ハロウィンやクリスマスは何となく外を見て歩きたくなるし、年末は帰省し大晦日は除夜の鐘を聞きながら年越し蕎麦を食べたり、正月は家族で近所の小さな神社に初詣に出掛けたりする。
「全部ルーツが違う行事なのに、我ながら節操ないなぁ」と自分にちょっと呆れるけれど「冬は誰かと一緒に外に出掛けたい」と体が無意識に求めてるのかもしれないな。
そんなことを考えながら、友人とのささやかなクリスマスパーティーの計画を今年も練る。
Theme:風邪
昨日から私は風邪で寝込んでいる。
身体が怠く食欲もないので、スポーツドリンクしか口にしていない。
消化にいいものを食べた方が治りが早いのかもしれないが。
一人暮らしは気楽だが、体調を崩したときが辛い。
幸い現在はネットショッピングや宅配サービスが充実しているので食品や物品に困ることはないが、ただの風邪とはいえなんとなく弱気になってしまう。
そんな私を元気づけてくれるのが、ベッドサイドに飾ってあるオレンジ色のガーベラだ。
通勤帰りに何となく惹かれてしまい、切り花を一輪購入した。
植物を育てたことはほとんどなかったが、切り花用の栄養剤を購入しこまめに水替えをしている。
茎だけになってしまっても、水を吸って一生懸命に花を咲かせているガーベラ。
健気な姿に励まされるようだ。
…ガーベラが頑張っているんだから、私もお粥くらいは食べてみようかな。
ベッドから起き上がった拍子にベッドサイドが小さく揺れ、大輪の花が頷いてくれたように見えた。
Theme:何でもないフリ
貴方は何でもないフリがとても上手い。
どんなに悲しいときでも、どんなに辛いときでも、平気な顔をしている。
皆は貴方のことを「冷静で頼りになる」「強い人だ」と褒め称える。
でも、私はそんな貴方が心配で仕方ない。
貴方は自分の感情を抑え込むことが当然のようになっている。
確かに周囲から見ると感情的にならない立派な人だ。
大丈夫?自分の感情が爆発しそうになってるんじゃない?
もしかして、本当に「何でもない」って思い込んでるんじゃない?
自分の感情を、大切にできる場所はあるの?
感情に流されない立派な貴方はすごいと思う。
でも、だけど、すごい人でなくていいから、時には「何でもないフリ」はやめて素の貴方でいて。
貴方の心が壊れてしまったら、私はそれが一番辛いから。
Theme:仲間
「仲間」という言葉ほど信用できないものはない。
ただ単に「利害が一致している者同士」を美化しているだけじゃないか。
そしてその利害関係が解消されれば、またただの他人同士だ。
10年前の自分に何か伝えることができるなら「仲間なんて信じるな」と言いたい。
「正義」という言葉の内容が語る者によってころころと変わるように、「仲間」だって常に信頼を寄せられるものではない。
だから、耳障りの良い言葉に惑わされてはならない
「仲間だから」という言葉を真に受けなければ、私はあんなに傷つくことはなかっただろうから。
…でも、最近こうも思うのだ。
「仲間と信じられる存在がいないのは、辛いのではないのか」と。
誰も信用せず心を閉ざしていることは、思っているよりも辛いものだ。
裏切られるリスクを負っても仲間と呼べる存在を作るべきか、それとも喜びも悲しみも苦難も全て一人で抱えて孤独に生きるべきか。
答えはまだ、出そうにない。