失恋
早苗「どうも一ノ瀬が失恋したらしい」
翔吾「そうか。あいつも災難だな」
早苗「そんなわけで傷心中の彼を元気つけてやろうと思うんだが、星型サングラスをかけてピロピロの笛を吹きながら太鼓でどんちゃんして彼の前に現れれば元気になるかな?」
翔吾「それただの頭おかしい奴だからやめとけ」
早苗「そうか。ダメか」
〜数日後〜
早苗「大ウケだった!」
一ノ瀬「ハァー、もうほんっと最高! なんでフラれたのか忘れちまったよ」
翔吾「それでいいのかお前ら」
正直
「ショーゴくん、正直に、嘘偽りなく言ってくれ。この光景をどう思う?」
高宮早苗の質問に宮川翔吾は眉根を寄せた。目の前には来週に差し迫った中間試験の試験勉強でおかしくなったクラスメイトが数名、奇声と奇行を繰り広げているところだった。
あるものは教科書を握りしめて泣き、またあるものはどうしてこの問題が解けないんだと嘆き、またあるものはぶつぶつと数式を呟きながら床の上で横になって地面にのの字を書いている。そして今もう一人が急にミュージカルをし始めた。「どうして勉強しなきゃいけないの〜」と歌いながらくるくるまわり、窓の方へ移動している。
その光景に対し、どう思うかなんて質問は、正直に言わなくともはっきりこう言える。
「地獄か何かか?」
と。
翔吾たちが通う高校は、割と田舎の私立高校である。しかも、進学校がつく。これは他の同級生に言わせてみたら嘲笑めいたものを含めたくなると言っていたが、まあ課題と試験と模試が他の学校より少し多いだけの、いたって普通の学校だ。毎日きちんと授業を受けて、課題をこなせばそれなりに点はもらえるだろう。実際、翔吾は課題と一時間程度の予習復習だけで普通に合格点を叩き出している。試験前に無理矢理時間を確保して勉強をするなんてことはしない。
だが同級生の中には、どうも勉強していなかったものが多いらしい。部活に明け暮れていた。勉強は軽く課題をする程度で終わっていた。そもそも課題も提出期間ギリギリまでやらない。というか授業中寝ている。そんな学生生活を満喫、もとい怠惰に過ごしていたものたちは今になって勉強というものに火がついたのである。
しかし、普段から勉強をしていなければ、解けないものは多いはずで。そのため、出題範囲の勉強を始めても、何もわからないとなっているのだった。何もわからないってどうわからないの? 全部。全部ってどこまで? 正直ここって授業で習ったっけ? そんな具合である。
しかも、「今回は全員全教科70点以上取ったら、アイスを奢ってやる」という謎の発破をかけられたせいで、全員やる気が満ちていたところに70点とか夢のまた夢じゃないかという現実的なショックもあり、生徒の発狂に拍車をかけていた。我が担任ながらなかなか酷なことをするなと翔吾は密かに思っている。
「もうだめだ。俺のせいでみんなのアイスが無くなっちまう……」
一ノ瀬という男がどんと机を殴りながら悔しそうに顔を歪めた。いや、お前は他人のアイスの心配より赤点が回避できるかどうかを心配しろよ。お前前回の試験で化学がやばかったって知ってんだからな。そう言いたかったのを翔吾はグッと堪えながら「お前ならできるぞー」と棒読みで声援を送った。
「宮川……! もっと心を込めて言ってくれ!」
やっぱ正直にアイスの心配してる暇があったら勉強しろって言えばよかった。翔吾は大きくため息をついた。
「どう足掻いても全教科70以上は無理だろ。これ」
「まあ、僕も無謀だなあとは思っていたんだ。進学クラスなら余裕だろうけれど、生憎うちのクラスは標準クラスだからね」
「つーか普段から勉強してたら普通に70はいくだろ。勉強していなかったのが悪いんじゃねえか」
「ショーゴくん、あまり正直に言ってやるな。彼らが灰になってしまう」
一ノ瀬を筆頭に翔吾と早苗のやりとりを見たものは低く弱々しい呻き声をあげ、机や床に突っ伏し始めた。さっきまで一人ミュージカルをしていた人物、萩沢に至っては歌うのをやめて窓の外に身を出しそうになっている。流石に飛び降りなんてことはしないだろうが、追い詰めすぎたかと思い翔吾は少し反省した。
「まあ、なんだ。とにかく後一週間あんだから俺と早苗と凪野、池倉あたりで教えれば何とかなるだろ」
そう言って、翔吾たちのクラスでかろうじて成績優秀で今勉強を教えている最中の人の名前を数名あげた。凪野はもうこれ以上一ノ瀬のバカに化学なんて教えられるかと抗議の声が上がったが、そこは無視することにする。
とにかく一週間、赤点を取りそうな奴を中心に、勉強会をひらけば良い。
翔吾は萩沢に古典を教えるようにと早苗に耳打ちしたのだった。
「ショーゴ君もアイス食べたいんだ?」
「正直、アイスのことはどうでもいいけど、担任が赤点のやつがいたから次の授業で小テストなとか言われたくないしな」
「なるほど。君は本当に正直者だね」
高宮早苗は梅雨が苦手だ。梅雨の時は髪の毛のセットに時間がかかる。
特別すごい癖があるとか、天然パーマとかはない。だが、普段しっかり決まる髪型が、梅雨の時期になるとどことなく決まらなくなるのでやっぱり梅雨は苦手だ。
しかも外へ遊びに行くこともままならず、やることは家の中でおとなしく読書をするか、通信機器を弄って動画配信サイトを見るか、寝るかくらいなものである。大変つまらない。
そんな早苗が、今日に限ってはどういうわけかご機嫌だった。もっというと、学校にいる間はほとんど一緒にいる宮川翔吾と傘をさしてお出かけをしているほどである。
おそらく、傘のおかげなんだろうな。翔吾はスキップしそうな勢いで水たまりに足を踏み入れている早苗の方を見ながら思った。
今日、早苗が指している傘はいわゆる蛇の目というやつで、傘の中央部と縁に赤い紙とその中間に白い紙が張ってある和傘だった。どうも同級生の倉の中から出てきたものを貰い受けたらしい。古典が好きなように古めかしいものが割と好きな早苗はその蛇の目傘をえらく気に入り、日曜日の今日、翔吾にわざわざ学校近くの家にある紫陽花を見に行くという予定を取り付けてまで使おうと思っていたのだ。何というか、こいつらしいなと翔吾は思うが、紫陽花を見るくらいならもっと近場があっただろうと言いたくてしょうがないところがある。
まあ、だが、雨自体は思っていたよりも小ぶりだ。これなら早苗が水たまりに顔ごと突っ込んで全身びしょ濡れにでもならない限り風邪になることはないだろう。そう思いたい。
「雨 雨 降れ降れ 母さんが 蛇の目でお迎え嬉しいな」
早苗は嬉しそうに北原白秋作詞の有名な童謡を口ずさみながら前を行く。パシャ、とまた水たまりに足が突っ込んでいった。長靴ではなく普通のスニーカーでそれをするのは、やめた方がいいのではないか。そう言いたいが早苗はやめてくれそうな気配はない。
むしろゆっくりと歩く翔吾に「遅いぞショーゴくん。早くきたまえ」と宣うくらいである。思わずため息が漏れた。
「雨なのにご機嫌だな」
「ご機嫌に見えるかい? それはいい。なんせ今日は紫陽花を見に行くんだからな。憂いた心で花を見てもつまらないだろう」
「そうかよ。まあ、帰ったらしっかりタオルで体拭けよ」
そんな会話をしながら進む。通りの角を曲がると、学校までまっすぐ続く道に来た。目的地の紫陽花が咲いている家がそろそろ近い。
「そういえば知っているかい? 紫陽花の花は土壌の成分によって色が変わるそうだ。なんでもアントシアニンだか何だかが土壌のアルミニウムと反応するらしい」
「アントシアニン、ねえ。確か紅葉もそれが理由じゃなかったか? 一年のとき数学の先生が熱弁してたな」
「そうなのか。僕はその先生の授業を受けたことはないが、どんな話だったんだい?」
「どんな、つってもな。紅葉が始まる頃は山が少しだけくすむっつー話だったよ。原因はアントシアニンのせいだみたいなこと言ってた」
「ふーん。そうか。それはショーゴくん、きちんと聞いておくべきだったな。しっかり聞いてくれれば今ここで面白おかしく話ができただろうに」
「別にお前に話したくて聞いてたわけじゃねえからな。聞きたかったら自分で聞きに行け。……っと、んな話している間についたな」
紫陽花の花が咲く家の前にくる。この家は生垣がキャラボクやカイツカイブキの代わりに紫陽花が植えてある。五月の終わりから六月にかけて、薄い群青色の装飾花が見事に咲いている姿が見られるのだ。
「うん。やっぱり綺麗だな」
早苗はその紫陽花の花を眺めながら、何度も何度も頷いた。雨粒に濡れた紫陽花は、やや暗めの空の下でも可憐に咲き乱れている。鬱陶しい雨が、そこだけ美しいと感じる程度には、色鮮やかで綺麗だった。
翔吾はその光景を、早苗の少し離れた位置から見る。
古風な蛇の目傘と紫陽花。それから雨。どことなく絵画のような光景。
翔吾は綺麗だとか趣だとかそういうものには割と疎い方ではある。が、これはまさしく侘び寂びがあると言えるものだ。
そのせいか、ぽつり、と言葉が出た。
「雨の下 紫陽花を見る 蛇の目には いかな思いを 下に潜めば」
出た言葉を耳にしただろう早苗が、ばっと驚いたように勢いよくこちらを見る。猫のように大きく目を見開いたかと思えば、すぐにその瞳をふにゃりと柔らかくして ――
「君が歌を詠むなんて珍しいじゃないか」
でも、下手くそだな。そう言って笑った。
天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、
早苗「暑いな」
翔吾「夏だからな」
早苗「そうだな。夏だからね。しかも、天気予報によると今日も晴れだそうじゃないか。ここ一週間ずっと晴れ間だぞ。早く秋が来てほしいと言うかもう少し雨が降っても良いんじゃないかと思えて……って、天気の話なんてどうでも良いんだ。僕が話したいことはだな、アイスを買ってきてほしいってことだ!」
翔吾「は? 暑いから出るわけねえだろ」
早苗「ならもう少し距離を取りたまえ! 具体的には一メートル以上開けて、冷房の前に立たない! いいか。君は僕よりも図体がでかいんだ。冷房の前に立たれたら風が送られてこないしなんならちょっと生ぬるい風が送られてくるんだよ!」
────
扇風機の前を陣取られると何か言いたくなる季節になりましたね。
高宮早苗は走っていた。教室から飛び出して、廊下をかけり、靴を適当に履き替え、そのまままっすぐ、帰り道を脇目も振らずに走っていた。その様子はさながら何かから逃げ出しているようで、実は本当に同級生で仲の良い男、宮川翔吾から逃げ出していたのだった。
体が熱い。
溜まり溜まった熱が吐き出し口を探すように、とにかく走っていないとやっていられなかった。風に当たっていないと何か喚きそうだった。
だってそうだろう。あんなことをされたんだぞ。
先ほどのことが頭をよぎる。低い声。衣擦れの音。ぬくもり。そして指先から伝わったあの──
「うわぁあああああ──!」
絶叫した。あまりにも恥ずかしくなってきたせいで。
いや、いや、確かに自分からいった。自分から付き合えばいいとか言ったのだ。しかもそもそもの発端からしたら、自分の好奇心でいった言葉だ。それに彼は答えただけで、彼が悪いことは何もないじゃないか。
でも。でも、だ。あれはなんだ。あの声もあの行動も今までそんなもの見たことなかったぞ。そもそも見せてはこなかっただろう。君そんな声出るの? 君そんな行動とるの? なんでそんなに君の心臓の音うるさいんだよ。僕は少女漫画大好きでよく読むけど、少女漫画でもびっくりの展開を出すな。少女漫画ですら裸足で逃げ出す感情を僕にぶつけてくるんじゃない。受け止めきれないだろ!
早苗の頭はめちゃくちゃだった。めちゃくちゃすぎて変な声が出るし表情がおかしくなるし顔から火が出るし心臓は早鐘のようになる。
頼むから追いかけて来ないでくれ。そんなことを思いながら、早苗はどうにか自宅の二階にある自分の部屋のベッドにたどりついたのだった。