高宮早苗は梅雨が苦手だ。梅雨の時は髪の毛のセットに時間がかかる。
特別すごい癖があるとか、天然パーマとかはない。だが、普段しっかり決まる髪型が、梅雨の時期になるとどことなく決まらなくなるのでやっぱり梅雨は苦手だ。
しかも外へ遊びに行くこともままならず、やることは家の中でおとなしく読書をするか、通信機器を弄って動画配信サイトを見るか、寝るかくらいなものである。大変つまらない。
そんな早苗が、今日に限ってはどういうわけかご機嫌だった。もっというと、学校にいる間はほとんど一緒にいる宮川翔吾と傘をさしてお出かけをしているほどである。
おそらく、傘のおかげなんだろうな。翔吾はスキップしそうな勢いで水たまりに足を踏み入れている早苗の方を見ながら思った。
今日、早苗が指している傘はいわゆる蛇の目というやつで、傘の中央部と縁に赤い紙とその中間に白い紙が張ってある和傘だった。どうも同級生の倉の中から出てきたものを貰い受けたらしい。古典が好きなように古めかしいものが割と好きな早苗はその蛇の目傘をえらく気に入り、日曜日の今日、翔吾にわざわざ学校近くの家にある紫陽花を見に行くという予定を取り付けてまで使おうと思っていたのだ。何というか、こいつらしいなと翔吾は思うが、紫陽花を見るくらいならもっと近場があっただろうと言いたくてしょうがないところがある。
まあ、だが、雨自体は思っていたよりも小ぶりだ。これなら早苗が水たまりに顔ごと突っ込んで全身びしょ濡れにでもならない限り風邪になることはないだろう。そう思いたい。
「雨 雨 降れ降れ 母さんが 蛇の目でお迎え嬉しいな」
早苗は嬉しそうに北原白秋作詞の有名な童謡を口ずさみながら前を行く。パシャ、とまた水たまりに足が突っ込んでいった。長靴ではなく普通のスニーカーでそれをするのは、やめた方がいいのではないか。そう言いたいが早苗はやめてくれそうな気配はない。
むしろゆっくりと歩く翔吾に「遅いぞショーゴくん。早くきたまえ」と宣うくらいである。思わずため息が漏れた。
「雨なのにご機嫌だな」
「ご機嫌に見えるかい? それはいい。なんせ今日は紫陽花を見に行くんだからな。憂いた心で花を見てもつまらないだろう」
「そうかよ。まあ、帰ったらしっかりタオルで体拭けよ」
そんな会話をしながら進む。通りの角を曲がると、学校までまっすぐ続く道に来た。目的地の紫陽花が咲いている家がそろそろ近い。
「そういえば知っているかい? 紫陽花の花は土壌の成分によって色が変わるそうだ。なんでもアントシアニンだか何だかが土壌のアルミニウムと反応するらしい」
「アントシアニン、ねえ。確か紅葉もそれが理由じゃなかったか? 一年のとき数学の先生が熱弁してたな」
「そうなのか。僕はその先生の授業を受けたことはないが、どんな話だったんだい?」
「どんな、つってもな。紅葉が始まる頃は山が少しだけくすむっつー話だったよ。原因はアントシアニンのせいだみたいなこと言ってた」
「ふーん。そうか。それはショーゴくん、きちんと聞いておくべきだったな。しっかり聞いてくれれば今ここで面白おかしく話ができただろうに」
「別にお前に話したくて聞いてたわけじゃねえからな。聞きたかったら自分で聞きに行け。……っと、んな話している間についたな」
紫陽花の花が咲く家の前にくる。この家は生垣がキャラボクやカイツカイブキの代わりに紫陽花が植えてある。五月の終わりから六月にかけて、薄い群青色の装飾花が見事に咲いている姿が見られるのだ。
「うん。やっぱり綺麗だな」
早苗はその紫陽花の花を眺めながら、何度も何度も頷いた。雨粒に濡れた紫陽花は、やや暗めの空の下でも可憐に咲き乱れている。鬱陶しい雨が、そこだけ美しいと感じる程度には、色鮮やかで綺麗だった。
翔吾はその光景を、早苗の少し離れた位置から見る。
古風な蛇の目傘と紫陽花。それから雨。どことなく絵画のような光景。
翔吾は綺麗だとか趣だとかそういうものには割と疎い方ではある。が、これはまさしく侘び寂びがあると言えるものだ。
そのせいか、ぽつり、と言葉が出た。
「雨の下 紫陽花を見る 蛇の目には いかな思いを 下に潜めば」
出た言葉を耳にしただろう早苗が、ばっと驚いたように勢いよくこちらを見る。猫のように大きく目を見開いたかと思えば、すぐにその瞳をふにゃりと柔らかくして ――
「君が歌を詠むなんて珍しいじゃないか」
でも、下手くそだな。そう言って笑った。
天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、
早苗「暑いな」
翔吾「夏だからな」
早苗「そうだな。夏だからね。しかも、天気予報によると今日も晴れだそうじゃないか。ここ一週間ずっと晴れ間だぞ。早く秋が来てほしいと言うかもう少し雨が降っても良いんじゃないかと思えて……って、天気の話なんてどうでも良いんだ。僕が話したいことはだな、アイスを買ってきてほしいってことだ!」
翔吾「は? 暑いから出るわけねえだろ」
早苗「ならもう少し距離を取りたまえ! 具体的には一メートル以上開けて、冷房の前に立たない! いいか。君は僕よりも図体がでかいんだ。冷房の前に立たれたら風が送られてこないしなんならちょっと生ぬるい風が送られてくるんだよ!」
────
扇風機の前を陣取られると何か言いたくなる季節になりましたね。
高宮早苗は走っていた。教室から飛び出して、廊下をかけり、靴を適当に履き替え、そのまままっすぐ、帰り道を脇目も振らずに走っていた。その様子はさながら何かから逃げ出しているようで、実は本当に同級生で仲の良い男、宮川翔吾から逃げ出していたのだった。
体が熱い。
溜まり溜まった熱が吐き出し口を探すように、とにかく走っていないとやっていられなかった。風に当たっていないと何か喚きそうだった。
だってそうだろう。あんなことをされたんだぞ。
先ほどのことが頭をよぎる。低い声。衣擦れの音。ぬくもり。そして指先から伝わったあの──
「うわぁあああああ──!」
絶叫した。あまりにも恥ずかしくなってきたせいで。
いや、いや、確かに自分からいった。自分から付き合えばいいとか言ったのだ。しかもそもそもの発端からしたら、自分の好奇心でいった言葉だ。それに彼は答えただけで、彼が悪いことは何もないじゃないか。
でも。でも、だ。あれはなんだ。あの声もあの行動も今までそんなもの見たことなかったぞ。そもそも見せてはこなかっただろう。君そんな声出るの? 君そんな行動とるの? なんでそんなに君の心臓の音うるさいんだよ。僕は少女漫画大好きでよく読むけど、少女漫画でもびっくりの展開を出すな。少女漫画ですら裸足で逃げ出す感情を僕にぶつけてくるんじゃない。受け止めきれないだろ!
早苗の頭はめちゃくちゃだった。めちゃくちゃすぎて変な声が出るし表情がおかしくなるし顔から火が出るし心臓は早鐘のようになる。
頼むから追いかけて来ないでくれ。そんなことを思いながら、早苗はどうにか自宅の二階にある自分の部屋のベッドにたどりついたのだった。
逃げ出してすまない。
でも、言わせてくれ。あれは本当に僕には耐えられなかったんだ。その……君の思いをよく知らなかったから。
だから、その、君が僕にどんな思いを抱いているのかわからなくて、僕だけが君のことを気に入っていると思っていて、僕だけが君のことを好きだとばかり思っていたんだ。
いや、ごめん。嫌われていないというのはわかっていたよ。そうでなければ僕のあの無茶ぶりに付き合う奴はいないだろう。
君は僕が面白そうだからやろうと言ったことに、代案は出してくることはあっても結構付き合って貰ったからね。
でも……そうだな。野良猫に好かれた程度に思っているんじゃないかと考えていたんだ。ほら、猫はかわいいだろう? そう。猫だから変なことしてもしょうがないなみたいな気持ちで僕と一緒にいるものだとばかり思っていたんだ。違ったんだけどね。
それで、僕はそんなことを思っていたから、君の僕に抱いているものが色恋のそれだとは思わなくて、その……もう、この話はやめにしないか? もう私は恥ずかしくって心臓が痛くて死にそうなんだ。正直、苦しい。
……ぅ、わ、笑うなよ。これでも本当に君にはすまないと思ってるんだぞ。たかが抱きつかれただけで逃げ出してから一週間も避けてしまったんだから。
いや、そう。うん。だからごめん。
今の私には刺激が強すぎるんだって……。
この学校では夏に半袖の制服を着ている生徒は少ない。
なぜか長袖のシャツの袖を捲っているものが多い。しかも男性だとシャツの下に半袖のTシャツを着ているものが多く、教員からは「暑いだろうから半袖になった方がいい」と苦言を呈されるほどである。
そしてそれは、宮川翔吾も例外ではなく、夏場の学校でも長袖のカッターシャツを捲って過ごしていた。
だが今日に限ってどういうわけかシャツの長袖が用意できず、仕方なく半袖を引っ張り出してきたのだった。
そしてそれを、高宮早苗は出会った瞬間、指をさして大声で指摘してきたのだった。
「珍しいな。君が半袖を着てくるの!」
「長袖がなかったんだよ」
前に後ろに右に左にと翔吾の周りをうろちょろしながらはしゃぐ早苗に翔吾はうんざりした顔をした。そんなに自分の半袖姿は珍しいものなのだろうか。というか、同じクラスの一ノ瀬も隣のクラスの永倉も今日は珍しく半袖で登校しているものがいるだろう。なぜ自分だけにはしゃいで寄ってくるのか不思議でたまらなかった。
「そんなにはしゃぐもんじゃねえだろ。たかが半袖くらいで」
そう言うと早苗は目をぱちぱちと瞬かせた。
「いや、いや、いや。君が半袖なのは珍しいよ。はしゃぐに決まっているだろう。僕は一年から出会ってずっと、その姿を見たことないぞ」
と、言うわけでハイチーズ! 早苗はどこからか取り出した通信機器を手に持って、写真を取り出した。
男の半袖姿の写真を撮って楽しいのかよ。
そう思いながら、翔吾はため息をついた後、へたくそなピースサインを作ったのだった。