【夢と現実】
幸せだった。
今までの辛い出来事は、ぜんぶ嘘だった。
親友は生き残っていたし、自分は任務を果たした。
今では、愛する家族に囲まれて笑っている。
幸せでたまらず、横に座る男に腕を絡めた。
「どうした?零」
愛しさに溢れた美しいエメラルドの瞳が、優しく細められる。
「こんなに幸せで良いのかと思って」
甘えるように男の胸に顔をうずめる。
ぼうっとするような甘い匂いに包まれた。
「君はよく頑張った。幸せになって良いんだ。
永遠に、ここにいれば良い。誰も君を傷つけやしない」
甘い声が、麻薬のように脳内に染み渡る。
ああ幸せだ。
このままここで、彼に守られて過ごせば良いんだ。
ふと頭の中で声が聞こえた。
本当に?
本当よ。
ここは…、私の幸せな世界。私の真実。
私はここで幸せに生きていくの。
お願い、私から大切な人達を奪わないで。
でもやっぱり、気付いてしまった。彼は、もっと苦くて苦しくて、心を突き刺すような匂いの人だった。
まだ何も伝えられていない。帰らないと。
暖かかったはずの彼の腕が、だんだんと冷えていく。
ぽろぽろと涙が溢れた。見上げると、彼は優しく微笑んだままゆっくりと頷いてくれた。
目を開けると、白い天井が見えた。
口には酸素マスクが付いて、体には数多の機械から管が伸びている。息が上手く出来ない。
「零…!?」
横に、驚いた表情で赤井が立っていた。
「目が覚めたのか…本当に、良かった」
男は声を震わせた。
目の下には濃い隈ができ、疲れた顔が痩けている。
でも、握りしめた手は、とても暖かかい。
痛くて苦しい世界だけれど、私の生きる場所は此方なのだ。
「ただいま」
掠れた声で呟くと、赤井は泣きそうな顔で微笑んだ。
それは夢で最後に見た彼の表情と、同じだった。
「おかえり、零」
【距離】
零は、左隣に座る赤井をちらりと見た。
寡黙な男は、今夜もウイスキーを煽っている。
街なかで偶然出会い、半ば連行されるように連れて来られたのは、小さなバーだった。
他の客がいないため、店内はゆったりと感じられる。
何故、この男と一緒に酒を飲んでいるのだろうかと不思議に思った。長年の誤解が解けたとはいえ、自分達の関係はもっと温度が低いものだったはずだ。仄かに体温を感じる近しい距離に、気持ちが落ち着かない。
「何を考えているんだ?」
眉を寄せていると、優しい声が頭上から聞こえた。
「ここの椅子狭いから、一つ隣に行こうと思って」
「何故?」
「何故って、他人が近くにいると落ち着かない気分になりませんか?少し離れたほうが…」
話しながらさり気なく体を右にずらそうとしたが、腰にまわされた腕により、叶わなかった。
「それは困るな」
男の胸にぐいっと引き寄せられ困惑する。
抗議しようと顔を上げると、美しい翠の瞳と交わった。真っ直ぐ見つめてくる視線に、囚われたように動けなくなる。
「俺は、君をこれ以上離すつもりは無い」
重なった唇は、二人の距離をゼロにした。
【泣かないで】
零は、立ち尽くしていた。
本拠地であった建物が爆発と共に崩れ落ちていく。
長らくにも及ぶ組織との戦い。
そして今日この日、全てが終わった。
ボスを始めとした幹部らを取り押さえ、開発していた薬の重要データも手に入れた。これで小さな名探偵や、優れた研究者の少女は元に戻ることが出来るだろう。
彼女は戦い終えたのだ。
喜ぶべきなのだろう。
しかし、彼女の目からは涙が溢れて出た。
止めようとしても止まらない暖かな水滴は、差し出されたハンカチによって拭いさられた。
「泣かないでくれ。泣くときは俺の胸でと約束しただろう?」
涙を堪えきれず、しゃくり上げながらしがみついてきた彼女を、赤井はそっと抱き締めた。