意味が無いこと、、、これは人によって捉え方が変わりそうだ、、
私の場合でぱっと頭に思い浮かんだのは『結論が出ないことを永遠に考え込む』かな。
本来私はよく周りが気にしないことが気になったり、言葉や態度の真意や自分の行動の善し悪しを考えては、何が正解なんだろう、とぐるぐる考え始めて勝手に疲れるという節がある。
好きだとか嫌いだとか、感情なんて自分ですら見えないし、時々分からないことがあるのに、人の感情なんてもっと見えないし分からないよね、と思いはするのだけれど。
嫌われたくないって気持ちから気持ちを抑えて建前で話すことや作り笑いをすることも多い昨今、特に難しいことになってるんだろうなぁ。
ここまで来ると『これも建前で本音は、、』とか考えて何を信じていいかも分からなくなるし、、
逆に『意味のあること』ってなんなんだろうって上記を踏まえて考えると、
そういう気疲れや不信を避けるためにも、なるべく素直に、思ったことは言葉で伝えるのは大事だと思ってて、でも言葉の選び方ひとつで傷つくかもしれないって怯えて言えなくなる気持ちもあるのも、そう。
いざ自分が発言する時のために、言葉を多く、深く知っておくことは、相手や自分の為に言葉を選ぶ選択肢が増えるだろうから、大事にするべき意味のある行動だなと思う。
あとは、原因が分からない時は感情任せにしないで、1回しまって自分の内側でなんでなんだろうって考えてから伝えるのもいいのかもしれない。それが考えすぎの元かもしれないけれど、、笑
嫌いじゃないけど波長合わないなって人に好かれた時とか特に大変で、今まさにそういう状態なのだけれど、伝え方や態度に困る中で、自分の中の言葉に選択肢がもっとあればな、と日々思う。
今度の休みは本を読むのにでも使おうかな。
『意味が無いこと』
柔らかい雨、、かぁ。
真っ先に思いつくのは、散歩してる時に降って来たみたいな天気雨かな。
日差しの温かさと、時々当たる雨の冷たさと、キラキラして見えるあの感じがとても好きで、天気雨が降るといつもほっこりしてしまうんだよな。
晴れてるのに雨が降るって確か、高いところにあった雨雲から水が落ちて、それが地上にたどり着く前に、雨雲は風に運ばれて、見上げても水を落とした雲は見当たらない。って現象なんだっけか。
日本語は雨の表現が特に多彩だけれど、雨のことを涙と表現することも多々ある。
例を挙げるなら、酒涙雨(さいるう)や涙雨(なみだあめ)、だろうか。
酒涙雨は、七夕に降る雨の事で、雨によって会えなくなった織姫と彦星の涙と言われてるんだとか。
涙雨は、悲しみの涙が化して降るとされる雨で、心情によっては嬉し涙にもなるみたい。
このことも考えると、天気雨ってなんというか、、
『誰かの涙が届いたけれど、見上げても涙の落とし主は分からない。』っていう捉え方もできるのか。
雨を涙に例えるとして、柔らかい雨がどういう心情の涙になるかって考えると、プラスの感情ぽい雰囲気はあるなぁ。
まとめると、、『誰が落としたかは分からないけれど、受け取り手が少し暖かくなるような涙』って感じ、、、?
こういう捉え方も悪くないな。
『柔らかい雨』
哀愁とは。寂しくもの悲しい様、またはその感情。
改めて哀愁ってなんだ?って調べたら、大体そんな感じの結果が出てきた。どこの辞書サイトでもそう。
じゃあ哀愁を誘うってなんだろ。
自分自身の哀愁を引き出させるもの、、
誰かの哀愁を何かしらの行動によって誘発させる、、とか?
今回は前者の方が身近なので、その前提で書き記そう。
最近、少し人と話す時、寂しかったり、悲しかったりする。
『自分が本当の意味で心を許して接する人はどれだけいるんだろう』とか考えたり。
作り笑いが年々上手くなっては、最初は必要な時にニコってするだけだったものが、必要以上に無理して笑うことが多くなって、簡単に剥がせないものになってしまってきている。
1度作り笑いのスイッチが入るとなかなか抜けないし、それに危機感を覚えてスイッチではなく電源を無理やり切るようにすると、押さえ込んでたものが溢れそうになって、今度また必要になった時に、上手く笑えてない、、なんてことがある。
笑顔の裏で冷めたような感情を抱えてることは少なくない。
心を許した人はいても、その人がいつでも私の心を受け入れてくれるとは限らないし、その人が私に心を許しているのかも分からない。
そういう分からないことだらけな見えないものに思いを馳せては、不安になって、そんな中でも忙しなく日常は流れて、人と触れる機会はどうしたって訪れる。
誤魔化すように作り笑いを装備して、不安なんてなかったように取り繕って、完璧な自分を演じては、弱い自分に見て見ぬふり。
時々目をやって思い出しては、寂しさや悲しさを覚える。
私にとって哀愁を誘うものは、作り笑いなのかもしれないな。
『哀愁を誘う』
よく、人は鏡とか言って、いいことをすればいいことが帰ってきて、悪いことをすれば悪いことが帰ってくる。みたいな言葉があるよなぁ。
それも捉え方では『鏡の中の自分』なのかもしれない。
でも、実際の鏡で自分を見た時って、結構その時の環境や自分の内面からも影響あると思っている。
例えば、光の当たり具合で、見た時によく見えるか悪く見えるかも違うし、そもそも鏡自体も、反射で見てるものだから、左右反転だったりとか実際に誰かから見た客観での姿とは違う。
内面からの影響としては、目元にコンプレックスのある人なら、鏡を見た時に目元を見て、『好きじゃない目元だなー』になる訳だし、前髪がどうとか、肌の調子がどうとか、いっこ悪く思うところがあると、色んなところが気になり始めてくる。
誰かから見た自分と自分に見えてる自分が同じとは到底言いきれないのに、気になっちゃって仕方が無くなる。
その点も踏まえた上で、一番最初の人は鏡、ということを考える。
自分に降りかかる沢山の外部からの影響(光や影)が相手からの見え方に影響することもあるし、ふいに相手からの見え方を知ったとしても、それを本当の意味で知ることはなく、あくまでも自分の見え方と感じ方に依存する形になる、、のかな。
相手に見えているもの、自分に見えているものはそれぞれ違くて、それを日々重ねてきた『見えてきたもの』はその人を作る糧になっていく。
人を鏡に見立てて想いを注ぐのも大事だけれど、時には自分も誰かの鏡であることを思い出して、自分が見えているもの、鏡(自分)越しに相手が見ているもの、そして貰ってきたものに目を向けるのも、いいのかもしれない。
そうやって存在を知り、考えて目を向けてみることで『自分に見えるもの』が増えていくのかな。視野の広い人はこうやって新たな視野を培っていたりするのかもね。
今後、少し意識して過ごしてみよう。
けれど、見えるものが増えてきたら、全部見えた気になって傲慢さが出そうになる事は怖いな。
全ては私の見え方と感じ方に依存していて、私のものさしでしか世界は測れず、全てを知ることは絶対に出来ない。
視野が広いと大きくなった気になるけれど、変わらず小さいままであることを忘れずにいよう。
『鏡の中の自分』
眠りにつく前、人それぞれの神事があるようで、その違いや個性が結構好きだな。
寝る時にある程度音がある方が寝やすい人や、逆にとても静かな中で自分の体内の音に耳を傾けて寝る人もいて、、
寝る前に完全にスマホを断つ人もいればギリギリまでスマホを触って気絶するように寝る人もいるし、、
でも皆睡眠の悩みは尽きないのか、睡眠アプリって検索すると、色んなテーマの睡眠アプリが出てきて面白かったな。
日本はもちろんとして、海外の制作会社のものも多かった。
ゲーム感覚にするものや、睡眠の記録を撮るもの、睡眠音楽に特化したもの、、ほんとに沢山。
かくいう私も、眠れない夜は日々ある中で、睡眠アプリにお世話になることが多々ある。
人間関係だとか、将来だとか、そういう事に悩んでは大反省会を開くわけです。そんな気持ちでぐっすりと寝れるわけが無いですね。
世界中、自分とは違う人達が沢山いる中で、多かれ少なかれ、皆悩みはあって、それで眠れない夜がそれぞれあるのかもしれない。
睡眠アプリを検索してみて、そういう安堵に、少しばかり耽ってみたり。
そういうことを考えてたら、誰かにするように、自分自身を労るのもいいかもなぁ。なんて思ってきました。
明日は休みだし、ストレッチしたり、睡眠音楽かけたりして、今日は少しだけ長く寝てみようかな。
『眠りにつく前に』