「本当はね。」
この先の言葉が言えなかった。君に出会うまでは。
「明日の放課後、駅前のカフェ行こうよ。」
友達が、私の机の前まで来て言う。私は笑顔で答える。
「いいよ。めっちゃ楽しみ。」
本当は行きたくない。面倒くさいし、時間の無駄だし。それでも私は、自分の本心を裏返す。だってここで反対したら、あとがもっと面倒になるって知ってるから。私は、言葉を飲み込むのだ。
私は放課後、明日の憂鬱を忘れるために屋上に向かった。一人になりたかったから。しかし、屋上には先客が居た。その先客は、私のクラスの異端児の男子。ズバズバと正直に言う彼が、少し苦手だった。引き返そうとすると、彼がこちらを見て言った。
「君って、気持ち悪いよね。」
突然の罵倒に、思わず手が出そうになった。しかし、私はその気持ちを抑え込んだ。
「ごめんね。気分悪くしちゃってた?」
笑顔で言う私を見て、彼は嫌そうな顔をした。
「何で、嘘つくの?」
やっぱり気づいてたのか。私は嘘を吐くのも面倒なので、正直に答えた。
「面倒くさいからだよ。でも君には分からないよね。」
「うん。全然分からない。嘘つくのが面倒くない?」
「分からなくて良いよ。私は君を分かりたくないから。」
彼は少し笑った。
「君はさ、そっちの方が良いよ。」
「あっそ。君が良くても私は良くないの。」
「君は、何をそんなに怯えてるの?」
訂正しよう。私は彼が嫌いだ。全てを見透かす彼の態度が嫌いだ。彼に見られたら、私の本心を知られそうで怖い。
「僕が思うに君は、一人になるのが怖いんじゃない?」
ほら。答えられた。知られた。本当に彼が嫌いだ。
「そうだよ。私の本心を知られて嫌われたくないんだ。」
「僕が居るよ。僕だけは君を嫌わない。」
あぁ、辞めてよ。泣いてしまうだろう。彼の言葉は嘘でないと知っているから。彼だけは味方で居てくれると分かっているから。彼が嫌いなんて嘘だ。本当は彼の正直さが羨ましかっただけだ。心の中では、彼に憧れていたんだ。
あの日から、私は彼と放課後を過ごすようになった。その時間は、どの時間よりも楽しかった。きっと私は、彼が好きだ。それでも、私の言葉は嘘だらけで汚れてしまっているから。まだ心の中に置いておく。いつか言葉を裏返さずに、好きの二文字を言えるだろうか。
『大丈夫だよ。』
暗闇しかない私の世界に、彼女は現れた。
「お前は何で生きているんだ?」
父はそう言って、私を嬲った。生きている意味なんて知らない。私は今日も、生きる意味を考える。
「アンタなんて、産まなきゃ良かった。」
母はそう言って、私を蹴った。本当に、何で私を産んだんだよ。私は今日も、酸素を無駄遣いする。
「学校に来んなよ。」
クラスメイトはそう言って、私を虐めた。私だって、来たくないよ。私は今日も、笑う事を諦める。
『大丈夫だよ。』
ある日、鏡の中から声がした。覗き込んでみると、そこには同い年ぐらいの女の子が居た。曇っていて顔は見えない。それでも何故か、優しく微笑んでいる気がした。
「大丈夫じゃないよ。辛いよ。」
『私が傍に居るよ。』
私は泣いていた。何年ぶりに流した涙は、殴られた痕に滲みた。
『お疲れ様。今日も頑張ったね。』
「うん。」
『今日も聞かせてあげる。【鏡の国のアリス】を。』
「ありがとう。私、それ好き。」
『知ってるよ。』
「ワンダーランドに行ってみたいよ。」
『本当に言ってるの?』
「うん。だってこんな世界、大っ嫌いだもん。」
『そっか。じゃあ、いってらっしゃい。』
鏡の中から手が飛び出した。そしてそれらは私を、鏡の中に引きずり込んだ。
『やっと出られたよ。』
私が居た場所には、彼女が居た。その顔は、私そっくりだった。
『大丈夫だよ。糞みたいな親も、屑なクラスメイトも私に任せて。上手くやるから。』
「私はどうなるの?」
『永遠にその中に居るんだよ。私の代わりにね。』
彼女は、ニタリと張り裂けんばかりに笑った。
『呪いのワンダーランドを楽しんでね。』
彼女が出たがった意味が分かった。ここは異常だ。頭がおかしくなる。でも大丈夫。もうすぐだ。もうすぐで、次の生贄が来る。私はそれを鏡の中で待っていれば良い。
「綺麗。」
思わず口に出た。夜の海は、彼女みたいだった。
「これからよろしくお願いします。」
二学期が始まる頃に、彼女は転校してきた。彼女は美しかった。まるで絵画から飛び出てきたようだった。きっとこの日、僕の心は彼女に奪われた。
「ちょっと、貴方!なんてものを書いてるの!?」
美術の授業中、先生の怒号が響いた。その矛先は、彼女にだった。しかし当本人は、不思議そうに笑っていた。
「何って、桜の木ですよ?」
「そうじゃなくて!桜の木の下に死体がある事よ!」
確かに、彼女の絵には美しい桜の木と、死体が一つ描かれていた。しかし、不気味さはなかった。
「だって先生。桜の木の下に死体はあるものですよ。」
彼女は終始、笑っていた。その顔は、不気味だと思った。
この一件から、彼女は魔女と呼ばれるようになった。
しかしそんな魔女は、事故に遭い呆気なく死んだ。
彼女の命日から、早五年。僕の心は未だに彼女のものだ。我ながら女々しい。いや、違うな。きっとこれは後悔によるものだ。恋心じゃない。だって僕は、まだ彼女の化けの皮を剥がせていない。
『桜の木の下に死体はあるもの。』
綺麗なものには、それ相応の秘密があるのだ。それならば誰よりも美しい彼女にもあるはずだ。僕はそれが知りたかった。しかし、知ることはなかった。彼女は死んだから。それが悔しいのだ。
「海にも、秘密があるのかな。」
ふっと思った。目の前には、夜の海があった。きっとこの広大な海には、未知数に秘密がある。それは美しく、時に不気味な秘密だろう。彼女のように。
「綺麗。」
小さく呟く。しかしこんな言葉は、夜の海の黒さに消えていった。
「ずっと傍に居るよ。」
彼女と僕の約束。うん、ずっと一緒だよ。
「私、もう長くないんだ。」
唐突に告げられた言葉。持病がある事は知っていた。それが重い事も知っていた。それでも、まだ一緒に居たかった。
「だからさ。君とは、バイバイだよ。」
あぁ、その言葉を言わないでくれ。どうか君の口からは告げないでくれ。僕は彼女の病室から急いで去った。ドアを閉めた時に見えた、彼女の顔は泣いているように見えた。
僕と彼女は、中学で出会った。最初は只のクラスメイト。でも、日にちが経つたびに僕達は引かれあった。そして、付き合った。あの初々しい日からは、もう五年が経った。それでも、彼女への想いは色褪せない。それどころか、ますます好きになる。毎日が楽しかった。毎日が記念日だった。君だけが、僕の精神安定剤だった。でもそんな日も、もう終わる。あの約束、もう忘れているんだね。
「どうして来たの?私達はもう付き合ってないの。」
「そんなの嫌だ。僕はまだ君が好き。君は嫌い?」
「好きだよ。好きだから、別れたんだ。」
「そんなの分かんないよ。」
「君を泣かせたくなかった。」
「そんなのずるいよ。」
「知ってるよ。でも最後ぐらい良いでしょ?」
「僕は君が好き。好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き。」
「どうしたの!?君、おかしいよ。」
「君は僕を置いて逝くんだね。だったら嫌い。」
意識が朦朧とする。何があったけ?あぁそうだ。僕は彼女を殺したんだ。こっそり忍ばせたナイフで。目の前には、赤く染まった彼女が寝ていた。綺麗だな〜。僕は彼女の傷口に口を近づけ、肉片を一口飲み込んだ。
「これで、ずっと一緒だね。」
彼女は僕の中に居る。そう思うと、心の健康は保たれた。やっぱり君だけが、僕の精神安定剤なんだね。そういえば、彼女は死ぬ前に何て言ったんだっけ。
「ごめんね。」
そうそう、こんな事を言ってたんだった。でもね、一生許してなんて上げないよ。
「聴いてください。」
演奏が始まる。私は音楽を嫌った彼の演奏に耳を傾けた。
「大丈夫?泣いてるの?」
親からの重圧に苦しめられた少女時代。親にバレないように、こっそりと近所の公園で泣いていた私。そんな私に手を差し伸べてくれた少年が居た。彼は私の傍にいつでも居てくれた。そして、色んな所に連れ出してくれた。中でも一番のお気に入りは、商店街にある小さなCD屋だ。そこで私は、クラシック以外の音楽に出会った。私の中では衝撃的だった。帰り道、私は興奮のままだった。
「また一緒に行こうね!」
「一人で行きなよ。僕、音楽嫌いなんだよ。」
何で音楽が嫌いなのか、聞けなかった。この日以来、私達の会話から音楽は消えた。
私は小学校高学年になった。その分、親からの重圧は増すばかり。今までの私は、きっと反論せずに泣いていた。でも、今の私は違う。私は人生で初めて、親と喧嘩した。
「お前のために言っているんだぞ!」
「ありがとう。でも私には私の人生があるんだよ。」
結果、親は私を縛る事をやめた。いや正確には、縛れないと諦めた。この事をきっかけに、私達は仲良くなった。私が音楽を始めたいと言った時も、文句を言いつつ、ギターをプレゼントしてくれた。ツンデレな親だ。
彼とは中学も高校も一緒だった。その事が只嬉しかった。きっと私は彼に恋をしていた。毎日私の路上ライブを聴きに来てくれる優しさが好きだった。音楽を嫌いだと言っても、私の音楽を好きでいてくれた矛盾した所も好きだった。明日には告白しよう、毎日そう誓いながら眠った。
しかし、その誓いは破られた。私は事故に遭い、死んだ。
「聴いてください。」
彼は私が死んだ数日後、形見と化したギターを持って出かけた。目的地は、私が路上ライブをしていた所だ。そこで毎日欠かさずライブをしていた。
『嫌いだなんて、嘘じゃん。』
小さく呟いた言葉は、誰にも届かず終わる。はずだった。
「音楽で君が作られていたなら、僕はそれを愛すんだ。」
届いているはずがない。それでも、彼が言った言葉が私に向けられているのなら。私の頬には涙が伝った。
『いつか二人で演奏しようね。』
図々しい願いだ。でも願っていたい。君の奏でる音楽が、途絶えるまでは。そして、私の耳に届く間だけは。