『帰ってよ。』
彼が言う。何でそんな顔をするの?
「今までありがとう。」
この言葉を残して、彼は死んだ。長年の闘病生活から開放されたかのような、安らかな顔だった。私は看護師に声をかけられるまで、彼の死を信じなかった。信じたくなかった。今も残る、彼の手の温度。それも段々と薄れていく。彼の存在が消えていくようで怖かった。これから私はどう生きていけばいいのか分からなかった。彼のいない地獄を生きるのならば、いっその事、彼の元へ逝きたい。そして私は、自殺を決意した。
「ここはどこ?自殺に成功したのか?」
殺風景の中にある駅のホーム。その中央に私は立っていた。周りには何もなかった。
『何で来たの?』
懐かしの声がした。私は振り返った。そこには彼がいた。私が愛した彼は、どこか不満そうな顔だった。
『帰ってよ。君はここに来るべきではない。』
「何でそんな事言うの?私は貴方に会いに来たんだよ。」
『いいから帰って!』
突然の大声に、言葉が止まる。彼を見る。彼の顔には怒りがあった。しかし、頬は濡れていた。
『君には僕の分も生きて欲しいんだ。』
弱々しい彼の本心。私は自然と涙を流した。
『もう時期、電車が来る。それに乗れば帰れる。』
「貴方のいない世界で私は呼吸ができないよ。」
『大丈夫。君は一人じゃない。いつだって傍にいるよ。』
電車の訪れを告げる音がした。ドアが開くと、彼は私の背中を押した。
『もうこんな早くに来たら駄目だよ。』
窓越しに見えるのは、手を振る彼の笑顔と涙だけだった。
「君と私は赤い糸で結ばれてるんだよ。」
そう言って小指を立てた。ずるい私でごめんね。
「何で運命の糸は、赤なんだろうね。」
私が聞くと彼は、悪戯っぽく笑った。
「それはね。血の色だからだよ。」
彼は私を驚かそうとしたのだろうか。しかし、逆効果だ。いつだって私を楽しませてくれる彼が、とても愛おしい。
「血の色って、何だか呪いみたい。」
「確かに。」
二人で笑った。こんな幸せな日々は、長く続かないのに。
「ごめんね。駄目な彼女で。」
私は最後の力を振り絞って、彼の手を握った。投薬で浮腫んだ手を、彼は強く握り返してきた。もう時期、私は死ぬのだろう。前々から分かっていた事なのに、こんなにも怖いなんて。
「大丈夫。俺はずっと傍にいるよ。」
彼は笑顔で言ってくれた。しかし、目元が赤くなっている。私に気遣ってくれたのだろう。
「ありがとう。じゃあ、一つお願いしていい?」
彼は頷いた。きっとこれは、彼の人生を邪魔する最悪の願いだ。それでも、最後ぐらい我儘な呪いをかけさせてね。
「私以外と、結ばれないでね。君と私は赤い糸で結ばれてるんだから。」
彼は驚いた顔を見せた。しかし、笑顔で言ってくれた。
「俺には君だけだよ。だから君も、天国で浮気したら駄目だよ。」
二人で笑った。二人を結ぶ赤い糸。私は願う。糸が切れないように、ただ願う。
「何があるのかな?」
そう言って目を輝かせる彼女。彼女の後ろには、入道雲があった。
「見て!でっかい雲!」
彼女は、宝物を見つけたような笑顔で言った。
「あれは入道雲って言う、雷雲だよ。」
僕が言うと、彼女は不満そうにに口を尖らせた。
「君は本当に、雲が好きなんだね。」
「うん!だって雲の中に何があるのかなって考えると楽しくなるもん!」
こんなくだらない話が、ずっと続くと思っていた。続いて欲しかったのに。
「起きてよ。」
彼女は何も言わない。その事がより僕を絶望に陥れた。
「お願いだから、笑ってよ。」
出てきた声は、弱々しかった。何で彼女が事故に遭ってしまったのだろうか。僕は神を恨んだ。そして何も出来なかった自分を呪った。もういっその事、死んでしまおう。
屋上に来た。フェンスを越えた。あと一歩で君に会える。空は惨めな僕への当てつけのように、晴れていた。
「でっかい雲。」
雨が降るのだろう。空には入道雲が鎮座していた。
「君が雲の中に居たって、探し出すよ。」
僕の意志が、入道雲に、雨に消されぬように。
『また会いに来な。』
彼女は笑顔で言った。私の目には涙が浮かんだ。
「来週、花火大会があるんだって。」
今は夏休み期間。私は昔住んでいたこの町を訪れていた。
『昔はよく二人で行ったよね。』
私の横で話す彼女は、幼馴染で親友。私の引っ越しをきっかけに疎遠になってしまい、ついさっき再会したのだ。
『また一緒に行く?』
「行こ!浴衣あるかな?」
他愛のない会話。そんな会話でも懐かしさを感じるのは、夏のせいかな?
「楽しかったね。花火綺麗だった!」
彼女からの返事はない。私達の間には沈黙が流れた。それでも気まずさはなく、心地よかった。
『暫くは君とは会えなくなるのか。寂しいね。』
「今度は君が私に会いに来てよ。」
彼女は首を横に振った。私が聞く前に、彼女は言った。
『目を覚ませ。君の居場所はここじゃないだろ。』
この言葉を聞いた途端、頭に鋭い頭痛が走る。そして、私の意識が遠のいてくるのが分かった。
『また会いに来な。私はここで待っているよ。』
笑顔の彼女は、なんだか泣いているように見えた。
目を開けると、白い天井があった。段々と記憶が戻る。
「そっか私、事故に遭ったんだ。」
夏休み初日、私は駅に行こうとしていた。横断歩道を歩いた時、車が横から来て。
「何しに、駅に行こうとしたんだっけ?」
そうだ。私は町に帰ろうとしたんだ。彼女の墓参りのために。じゃあ今までのは、全部夢だったのか?夢だとしても、彼女と過ごした記憶は本物だ。
「君は夏の精になってまで、会いに来てくれたんだね。」
目から一筋の涙が流れる。また会いに行く。そう誓いながら、私は夏の音に耳を澄ました。
『君は何だか、生きづらそうだ。』
悲しそうな表情する彼。俺の目から雫が落ちた。
「天使だ。」
俺の口からは自然と、その単語が出た。比喩などではなく。目の前の彼には、白く美しい翼が生えていたのだ。
『こんばんわ。ベランダお借りしてるよ。』
俺に気付いた天使は、微笑んだ。俺の家はマンションなので、よく鳥が羽を休めにやってきた。それと似た理由なのかと考えていると、天使は口を開けた。
『僕は天使じゃないよ。昔は人間だったんだ。でも、環境に恵まれなくって、最後は自殺しちゃったんだよ。そんな僕を哀れんだ神様が、僕の願いを聞き入れてくれた。』
「何を願ったんですか?」
『どこまでも行ける、翼をくださいってね。』
翼。俺もそんなものがあったら、楽しいかな?
「何でその話を、俺にしたんですか?」
俺が聞くと、彼は真剣な眼差しを俺に向けた。
『僕みたいな死者が見える人って、死期が近い事を示すんだよ。そして、僕達はその人の死因が分かるんだ。君は近々自殺する。君も環境に恵まれなかったんだろ?』
俺は言葉が詰まった。ただ頷く事しか出来なかった。
『僕はきっと、君と自分を重ねちゃったんだ。だから言える。君は何だか、生きづらそうだ。』
涙がこぼれた。今まで、誰も俺の事を気にしてはくれなかった。両親も先生もクラスメイトも。それなのに、彼だけは俺を見てくれた。
「ありがとうございます。」
心からの感謝の言葉は、弱々しく夜に飽和されていった。
『今日は君の、命日だ。寂しくなるよ。』
「えっ!死んだら会えなくなるんですか?」
『生きてる君とはね。』
自殺する直前なのに、俺達の間には笑いがあった。
『死ぬのは怖くない?』
「怖くないって断言はできません。それでも、落ちるよりも飛び始める、って思うと気が楽です。」
俺は、ここではないどこかまで飛んで行ける翼を神様に願った。さぁ、飛ぼうか。俺の体が宙を舞った。