「お話しませんか?」
そう言う彼の目は、全てを見透かすようだった。
「ここから飛び降りるの?」
誰だこいつ?ネクタイの色から同級生だと分かる。無機質な笑顔を見せる彼。変な奴、これが初めの印象だ。
「辞めろとか言うのか?」
彼は無言で頭を振った。じゃあ何しに来たんだよ。
「僕はただ、自殺する人の心情が知りたいんだよ。だから僕と、お話しませんか?」
彼の言葉に偽りは感じなかった。俺は彼に流されるまま話し出した。
家に帰るのが辛かった。父親は酒屑で、酔っ払うと暴力を振るう。母親は癇癪持ちで、気に食わない事があると一日中暴れた。こんな家庭に産まれて、真面目に育つ訳が無い。俺の心は次第に、ボロボロに崩れていった。こんな日々から逃げ出したい。そう思った時、屋上のフェンスの向こうに立っていた。
「これが俺が自殺しようと思い立った理由だよ。」
彼は俺の話を頷きながら聞いてくれた。そういえば久しぶりだ。まともに人と話すのは。
「お前は何で、自殺する人の心情が知りたいんだ?」
俺が聞くと、彼の笑顔が一瞬引きつった。そして、徐ろに口を開けた。
「僕の兄は去年、首をつって死んだんだよ。学校で虐められてたんだ。あの時兄は、何で身内とかに相談しなかったんだろうって、ずっと疑問だったんだよ。でも、君のおかげで分かったよ。兄は人生から逃げたかったんだね。」
彼の目には涙か浮かんでいるようだった。
「俺は、この日にお前と話せて良かったよ。」
あと半歩前へ行けば、この世とおさらばだ。
「僕も君と話せて良かった。あの世に逝ったら、兄によろしくね。」
俺達は拳を合わせ、笑い合った。
「またどこかで逢えたら、友達になってくれますか?」
「当たり前だろ。じゃあ俺は先に逝くわ。」
俺は彼に見送られながら、前へ歩いた。
彼と最初で最後に出逢った日。俺が死んだ日。そんな日に俺は、彼への幸福と再会を願った。
「強くなりたい。」
そういう彼女の目は、潤んでいた。
「私達、別れましょ。」
突然、彼女が告げた。その言葉は、残酷なまでに優しかった。お願いだから。そんな泣きそうな顔しないでよ。そんなんじゃ、僕は一生君を忘れられないよ。
「もっと僕を頼って欲しかった。」
放った言葉は、風に飛ばされてしまう程に弱々しかった。
この一ヶ月後に、彼女は亡くなった。死因は病死。元々体が弱かったらしく、僕を振った日には、余命宣告されていたらしい。僕は分かっていたんだ。彼女の病が悪化している事にも。それなのに、気付かないふりをした。いや、気付きたくなかった。結局の所、僕は弱虫なのだ。
〈貴方にお願いがあります。私が死んだら、私の意思を継いで欲しい。私はタンポポの綿毛のように、弱い人間です。私はそんな自分を変えたかった。でも、そんな願いはもう叶わない。だから、貴方が、私の分まで強くなって下さい。それが私からの、最後の我儘です。〉
正直、僕には荷が重い願いだ。それでも、叶えてみせるよ。それが君を一人にした、僕の贖罪だ。
繊細な花として散った彼女。そんな彼女を愛した僕。僕たちが強さを得るには、まだまだ時間が掛かりそうだ。風が吹く。タンポポの綿毛が空に踊った。
「好きです。」
あの時、あの瞬間から俺の心は確かに彼女のものだった。
「もう一年か。早いね。」
教室の窓の外を眺めながら、彼女が言う。長い黒髪は風に揺れ、羽のようだった。神の使いかと思うほどの美しさが、彼女にはあった。そんなどこか儚いオーラを纏った彼女に、俺は一目惚れしたのが、一年前。あれから俺達は親友となり、恋人となった。
「来年も一緒に過ごしたいね。」
些細な願いだった。これの願いが叶うなら、俺は何だって出来る。そう思っていた。
ここは病院の中の一つの部屋だ。目の前には彼女がいる。目を伏せた彼女がいる。
「お願いだから、目を開けてよ。」
どうやら事故に遭い、意識不明らしい。そんなの嫌だ。彼女と話したい。彼女と笑いたい。ずっと彼女と一緒にいたい。想いが溢れる。しかし、この想いは彼女には届かない。こんなはずじゃなかったのに。辛いよ。怖いよ。こんな現実、逃げたいよ。でも、俺は諦めない。まだ、彼女と会える希望があるから。頑張るよ。何日、何ヶ月、何年経ってでも、彼女とまた一緒に過ごすんだ。
俺の努力は報われず、一年後に死んだ。もう駄目だ。彼女とは会えない。この事実は死よりも辛かった。
「君に会いたいよ。」
「それはこっちの台詞だよ。」
懐かしい声に、振り返る。そこには彼女がいた。
「君が死ぬなら私も死ぬ。だって、ずっと一緒なんでしょ?」
彼女はお茶目にそう言った。涙が止まらなかった。
「俺が起きるの、ずっと待っててくれたの?」
「当たり前でしょ。」
俺達は笑い合った。そして誓った。一年後も十年後も百年後も、来世でも、彼女の傍に居続けると。
「早く大人になりたいな〜。」
昔は今の現状に満足せずに、大人に憧れた。それなのに、今の俺は過去の俺が見たらどう思うだろうか。
〈〇〇小学校 卒業アルバム〉
そう大きく書かれた、分厚い本が目に入る。実家の倉庫の片付けをしている時だった。休憩がてら、アルバムを開く。
〈俺の将来の夢は、格好良い大人になる事です。〉
俺の将来の夢の欄には、そう書かれていた。抽象的すぎる夢に、顔が綻んだ。俺はなれたかな?
子供の頃は、自分こそが世界の主人公だった。そして、大人になったらもっとすごいことが待っている、そう信じていた。しかし、大人になって知った。昔憧れた大人は、存在しないのだと。大人はすごい、格好良いと目を輝かせていたあの頃にはもう戻れない。大人も社会も、薄汚いものだ。きっとその事を知った日から、俺もまた、薄汚い大人になっていったのだ。過去の俺を叱ってやりたい。抽象的な夢を抱く前に、もっと努力しろと。大人になってから頑張っても、もう遅いのだと。そして、教えてやりたい。お前が夢を見ているその日々が一番楽しいと。
あぁ、もう一度やり直したい。そんな馬鹿げた夢、叶うはずはない。ならばいっそ、これ以上汚くなる前に終わりたい。
足が自然と会社の屋上へと向かう。フェンスを越えると、そこには美しい景色があった。世界も上辺だけは綺麗なんだな。俺は少しの勇気と来世への期待を胸に、前へ歩く。
子供の頃は自分が世界の中心だった。大人になったら世界を回す歯車になった。歯車だとしても、俺が死んだら世界が悲しんでくれると期待してもいいじゃないか。
「貴方には普通の日常を生きて欲しいの。」
母の口癖だ。普通の日常ってなんだろう。
「ごめんね。普通の子に育てられなくてごめんね。」
昔、母が机に伏せながら俺に言ってきた。その側には、〈性同一性障害〉と書かれた紙があった。俺は戸惑った。俺は普通じゃないのか?分からない。しかし、一つだけ分かった。俺は母が望む子にはなれなかったのだ。その事がただ申し訳なかった。
「母さんは悪くない。私、普通の子になるよ。」
あの時決めた。私は普通の子になって、普通の日常を、人生を歩むのだと。
あの日から私は、普通の娘を演じた。学校では友達と恋バナをしたり、休日はカフェ巡りやショッピング。メイクやネイルは可愛い系。これが私の、普通の女子高生の日常。
「貴方が普通になって良かったわ。」
母はそう言って、嬉しそうに笑う。これがきっと正しい道なんだ。私は女の子。可愛いものが大好きな女の子。毎日そう言い聞かせて眠る日々。なんだか、疲れたよ。
「これでよしっと。」
部屋の天井にロープを吊るし終え、私は一息着く。やっと終われる。そう思うといつもより心が軽かった。俺は、鏡に向かった。今までは鏡を見るのが辛かった。見る度に、自分の性別を言い聞かせられるようで。でも、今の私は、ベリーショートの髪にメンズの服を身に纏っている理想の姿。
「最後ぐらい、俺の好きにさせてね。」
俺は空中に言葉を放った。返事がなくとも、心地よい。俺は、自分の首にロープを掛けた。静かな部屋で、俺の体が浮いたままだった。