頼み事を断らず、人の悪口を言わず、必要な時は叱り、感謝と気遣いで利他の精神をもち、自分より他人を優先させる。
唐揚げに檸檬を搾ってあげ、サラダは人数分取り分け、自分の箸を使うときは逆さ箸にして衛生面を保ち、焼き鳥は串から外し、外した後の串は、折ってまとめておく。
入り口に近い場所にポジションを取り、トレーに乗った人数分の飲み物は、手を伸ばして手伝い、乾杯のビールは相手から先に渡す。
脱いだ靴は履きやすい向きに返し、最後の唐揚げは残してあげる。
こんな私と飲みに行きませんか?
「冷たいのは心じゃない。身体の方なんだ」
彼はそう言って立ち上がった。「なにか温かくなるものでも買おう」
夜の公園のベンチで話しこんでいた私たちの身体が冷たくなっていたのは事実だった。
ずらっと並んだ自動販売機の、どれにしようかと悩んでいる彼の横顔が逆光になる。
いつもは黒髪のセンターパートのヘアスタイルが、頭の輪郭をぼやかすように茶色に浮かびあがり、その一本一本が、黒いべた塗りのシルエットを現実に引き戻すように立体感をもたせていた。すっとのびた高い鼻が後ろの光をきれいにさえぎってコントラストをつくりだし、上唇と下唇の稜線が私を戸惑わせた。
ガラガラゴトン。
「どうぞ」
漆黒の影は、まだ見ぬ白馬の王子様のように表情が読み取れず、声だけが冷たい空気を突き抜けて頭の中に直接響いた。
「ありがとう」
受け取った飲み物は……ホットチリソースだった。ずっしりと重い黒いラベルの緑のキャップをつけた先が細いタバスコのような形状だった。……なんでやねん。
「ちょうど切れてたんだ。家で鍋でもやろーぜ」
すかさず言い返す。
「ちょっと、コーヒーとかお茶じゃね?こういうときって」
私は笑いながら彼を見上げた。
心が少し温かくなった。
閉ざされた日記
わた雲が埋め尽くした曇り空は、街から光を奪いさっていた。押しつけるように重たく天井が近い。
道に並んだ枯れ木達は、無数に枝分かれしたまま空を仰いでいた。
木枯らしが吹き付けて顔を刺してきたので、マフラーの中に顔を沈めるようにあごを引く。厚底のブラウンのロングブーツが、乾いた落ち葉をぱりぱりと踏みつぶした。
散らかったアスファルト、人通りのない真っ直ぐな道、乾いた空気、色素がなくなってセピア色の世界に足を踏み入れたようだった。
一張羅でめかし込んだ、バーバリーチェックのマフラーだけが、色鮮やかに儚く浮いている。
寒さをごまかそうとコートの中に手を入れると、
携帯電話が振動した。彼からの通知だった。
『ごめん。』
『気付かなかった』
『今電話できる?』
私は既読をつけずに携帯電話をコートにしまう。
顔を上げると、視界を遮っていた枯れ木が無くなり、見慣れた角に差し掛かっていた。
道を曲がると冷たかった冬の風が急に止んだ。
夕飯の準備をしているのかクリームシチューの匂いがする。
壁に立てかけられたハマーの黄色い自転車、
公園で遊ぶ子どもの声、陽が傾いた茜色の空。
街は色を取り戻していた。
美しい夢を見た。
どこか深いところから浮かびあがり水面に顔を出すと、そこは南国の海だった。
クリスタルグリーンの透きとおった水中に、網目状に広がる光ぼう線、頬をあたたかい風が撫でる。張りついて口の中に入った髪を元に戻した。
もう一度水中に入ろうと身体を前転させると、呼吸が楽で、自分がマーメイドになっていることに気付いた。スパンコールのように光を乱反射する鱗の部分を、上下に上手く動かしながら深いところに入っていく。
横を見ると、でこっぱちのコブダイが眠そうに半目でこちらを見ていた。
底に近づくとファインディング・ニモに出てくるオレンジと白が美しいカクレクマノミがいた。その隣には黄色と黒が奇麗なエンゼルフィッシュ、奥にはピーチピンクが煌めくサンゴ礁が広がっている。
遮られた光が気になって上を見上げると、マンタの裏側が通り過ぎた。タレ目の笑顔がアンニュイだ。その後、再び光の剣が海を射し込んでいく。
つと奥の影から何かが忍びよってきた。
顔にタトゥーのようなカミナリ模様が入った、筋骨隆々の男のマーマンだ。
私はその場を離れて水中から飛び出し、岸辺に腰掛けた。
嫌な予感は当たり、彼は追いかけてきて海面に飛び出し、その重厚な身体で私の腹に覆いかぶさった。そして、ゆっくりと顔を近づけてくる。
――あ、これはやばい。ちょっと待ってちょっと待っ――。
……目が覚めると、家で飼っているネコが口元をぺろぺろと舐めていた。