「思いっきり甘えられて、子供みたいに振る舞える相手が、本当に相性がいい人」
そんな文字列を目にして、スマホを撫でる手を止めた。
ああ、私はきっと幸せな恋をしてるんだろう。
彼と一緒にいる時の感覚を思い出してそう思う。
わがままもたくさん言える、甘えたくなった時に甘えられる、辛くなったら寄りかかれる
私が一番子供でいられるのは、彼の前。
なんだか、親にもできないくらいに甘えていて。
二人きりの時の甘えた声はあいつしか知らない。
あいつの前の私はきっと誰より子供だと思う。
未熟で、弱くて、幼いこども
心のどこかの大人の私が
情けないって吐き捨ててる気がして
思考を止める。
幸せな恋をしている
お月さま、どうかお願いします。
私のこの苦しい気持ちを、柔らかい光で包んでください。
そしてそのまま消してしまって欲しいの。
真っ暗闇の中、それに取り込まれず一人輝くお月さまなら、きっとそんなこと朝飯前でしょ。
私もあなたみたいに強い私になれるかな。
真っ暗闇に引きずられない、強い私に。
彼が使ったすぐあとの浴室は、湯気で白く曇っていてまだ少し暖かい。
それでも素足には冷たい床が冬を主張しているようで、たまらなくなってシャワーからお湯を出した。
仲睦まじい恋人同士であれば、事後のシャワーも一緒なのだろう。そんなことが頭をよぎるが野暮なことだと頭を振る。
彼は今タバコを吸っている。いつもの事だ。することが済んで、すぐひとりでシャワーを浴びて、ベランダに行く。
それでいい。私たちはただお互いの欲求を解消するためだけの関係で、その間に余計な感情は持ち込むべきではない。
終わったら自分がしたいように、シャワーでもタバコでもなんでもすればいいのだ。私も少し休憩してからシャワーを浴びたい。とても合理的な流れだと思う。
泡立てたボディーソープを体に広げる。
ふと、事に及ぶ前に見た映画のシーンを思い出す。
恋愛ものの洋画だった。彼と見る映画は恋愛色が強いものが多い。そして必ずベットシーンがある。愛し合う2人がベットで重なり合うのを横目に、彼は私に覆い被さるのだ。今回もそうだった。
唇に柔らかい感触がして、気付けば深く口付けあっている。
彼の顔が離れ、次は首にやわらかさを感じた。すこしのくすぐったさと恥ずかしさが襲う。
照れたように顔を逸らした先にあった俳優の顔。
『Love you』
愛してると紡いだ口元が、その目が、どうしてか頭を離れない。
いつも通りの流れだった。きれいで、合理的で、お互いの気持ちを高めあって満足度の高い夜にするための。
彼の口からこぼれる「愛してる」も、いつも通りだった。欲望で燃える目もいつも通りで。
けれど、ほんの少しだけ思ってしまった。彼から、本当の愛してるを贈られたとしたら、欲望だけでなく、愛情も閉じ込めた瞳で見つめられたら。
錯覚する。彼の手つきが、私を愛するものでは無いと知っているのに。
今日は少し、別々のシャワーが悲しいなんて。
シャワーからお湯を出した。
全部流れればいいと思った。
ボディーソープの泡も、夜の痕跡も、私の要らない感情も、全て。
私たちはただお互いの欲求を解消するためだけの関係。余計なものを持ち込むべきでは無い。
私の本当の愛してるは、あなたにはあげない。
お湯を止める。
足を踏み入れた時よりも白く曇った浴室を出る。
そして換気扇をつけた。
いつもならすぐにタオルを手に取るけれど。
今は少しでも早く、このもやを取り払ってしまいたかった。
この街は静かだ。
皆が寝静まった夜、沈黙のかやが降りるこの街に、私は未だ馴染んでいないように感じる。
幼い頃から住んでいた田舎からこの閑静な住宅街に出てきてもう半年も経ったというのに。
窓を開け放ち、夜の匂いを感じながらする考え事は引っ越す前からの現実逃避のようなものだ。
風が運んでくる木々のざわめきが、
多種多様な鳥のさえずりが、
鬱陶しいくらいのカエルの鳴き声が。
恋しいだなんて思う私はどうかしている。
ずっと、ずっと憧れてきたのだ。
コンビニすらろくにない田舎の、あの野暮ったい雰囲気からいつか抜け出して、木の代わりに立ち並ぶ小洒落た住宅のひとつで、オムライスなんか食べながら。
幸せに暮らしてみたいと、そう思って。
隣で眠る母が、布団を引き上げる音がした。
いけない、少し冷えすぎた。
初夏、夏の初めとはいえ、夜はまだ冷える。
隣で母が寝ていることも、まだ慣れない。
ああ、どうせなら少しだけ、この静かな街を歩いてみようか。
昼間とは違う一面をこの街は持っているのかもしれない。
それを気に入れば、この街に自分が馴染めていない、場違いだと感じてしまうような感覚も、きっとなくなるに違いない。
息を殺し、できるだけ音を立てないように窓を閉め、外に出られる格好へと着替える。
肩からかける小さなバックにスマホと財布、それから家の鍵。上着も羽織った。
鍵のシリンダーをゆっくり回して、ドアを開ける。
少しくたびれてきた靴を履いて、外に出た。
ほんの少しの逃避行、きっとバレたら怒られてしまうけど。
「いいよね。だってこんなに綺麗な夜なんだから。」
満月が煌々と夜空に輝く空を見上げてそうつぶやく。思ったより星は少なくて、少し気落ちしたけれど。そんな気持ちには蓋をする。今夜はこの街を好きになるために歩くのだ。
ワンルームの安いアパート。私と母の暮らす家。
その少し軋む外階段をおりて、私は街へ繰り出した。
ふと、スマートフォンから顔を上げる。
顔にあたる空気を数時間ぶりに意識して、ああ、冷えたなぁと思う。
午前2時。
寝静まった世界は、私に現実を突きつける。
良い子は寝る時間だ。でも、私は寝られない。
ふと、勉強机の方に視線をやる。
横になっているから、机の上は見えない。
でも、そこにある膨大な参考書は見えなくたって私の心に重くのしかかる。
なぜ、こんなことになってしまうのだろう。
どうしていつもいつも逃げてしまうのだろう。
あと3時間で朝日は登る。
夜が明けたら学校に行かなければならなくて、
そしたら私は悪い子だとバレてしまう。
悪い子な自分は嫌だ。
そんな自分は受け入れたくない。
見たくない、見たくない。
スマートフォンに視線を移した。
膨大な文字が並ぶ画面を流し見る。
物語の世界には、こんな嫌な私はいない。
ああ、面白い。
楽しい。
手が止まらない。
止められない。
誰か、誰か私を止めてくれと、そう思う。
この腐りきった自分を立ち上がらせて、どんな苦痛にも耐えられるようにして欲しい。
そんなこと。
他人任せを願うとは、なんて自分は浅はかなのか。
自分で立ち向かい、乗り越えるしかないのに。
苦しい。苦しい。
この苦しさから逃れることができるのならば、
物語に溺れる方がどれだけいいか
面白い。
面白い。
手が止まらない、
止めようと思うことすら出来ない。
焦りも、自分自身に感じる失望も、午前2時の冷えた空気も全部頭の片隅に追いやって。
私は液晶画面を撫で続ける。
更けていく夜に
消えないあかりがひとつ。
逃げ続けた先に、何があるのか。
そんなことすら考えないまま。
深夜2時
良い子は寝る時間。
でも、私は寝られない。