「彼が教えてくれたこと」
彼と出会って知ったこと、わかったことは、いくつかある。
彼の言葉は、妙な表情と共にあって、それが私を困惑させていた。
言葉の裏とか、好きの裏返しとか、私はそういうのがわからなかったから。
嫌われているのだと本気で思っていたし、だったら近寄らないようにしようと努めていた。
それなのに、彼の方から関わってくるものだから、ますます私は困惑した。
告白されたときの衝撃といったら……
思わずお断りしてしまったけれど、それ以降は人が変わったように好意を示してくるようになり────
そして今、洗濯物を裏返して洗うか表のまま洗うかで口論になっている。
同棲初日からこれで、これから大丈夫なのだろうか不安だ、とメッセージアプリで友達に送ったところ『あなたたちなら大丈夫でしょ』とだけ返ってきた。
────裏返し
「警戒心が強過ぎる君を」
君は警戒心が強過ぎる。
少しでも近づくと逃げてしまう。
まるで小鳥のように。
君を初めて見た時の衝撃は忘れられない。
ある放課後、居残りさせられていた時のことだ。
どこからか聞こえてきた美しい歌声に誘われるようにたどり着いたのは、音楽室だった。
そっとなかの様子を窺う。
ピアノを弾きながら歌う君に目を奪われた。
あの光景が忘れられない。
どうにかしてお近づきになりたいと思っているのだが、うまくいかない。
大勢の生徒たちに混じっていても、君の声はすぐにわかる。
まるで鳥の囀りのような美しい声だから。
だが、その声のするほうへ視線を向けても、なぜか君の姿を見つけることが出来ない。
君は警戒心が強過ぎる。
別に取って食おうというわけではないのに。
やっぱり、初対面であんなこと言ってしまったからなのだろうか。
────鳥のように
「また会えると信じたいから」
「さよならを言うのは、引き留められたいからだろ」
彼はそう言っていた。
「さよならを告げるのは、区切りをつけるためでしょ」
彼女はそう言っていた。
私は、何も言いたくない。言わない。
ひっそりと姿を消して、しばらく経ってから手紙で『今までありがとう』と伝えたい。
そう思っていた。
相手が自分から離れるのは、いつだって耐えられないのに、それが私自身の選択したことなら耐えられるなんて、おかしな話だと思う。
別れは、どんなものも耐えられる気がしなくて、それなのに時間に流されて、耐えてしまったことに気づくのだ。
※
お気に入りのカフェを見つけるのは意外と難しい。
あまりにも居心地が良くて、うっかりしていた。
踏み込まないでいたラインを超えてしまったことに後悔はしていないけど、これから悔やむかもしれない。
「いつもありがとうございます」
お会計の時に「いつも」が付くようになって、まだそれほど経っていない。
だから、きっと店主は私のことなどすぐに忘れてしまうだろう。
「実は、転勤になりまして……」
しばらくこの店には来られなくなるのだと伝える。
何も告げずこの町を出ていくこともできたはずだ。
だが、この店主にだけは……
「そうですか……寂しいです」
「この町に来た時はこの店にも寄りますので」
「ありがとうございます。新天地でもお体に気をつけてくださいね」
「店長もお体に気をつけて。ケーキどれも美味しかったです。ありがとうございました。ではまた」
また会えることを前提にした挨拶を交わす。
心のどこかでは、もう二度と会えないかもしれないと思っているのに。
それはきっと、さよならを言ってしまったら、本当に今生の別れになってしまうからなのかもしれない。
────さよならを言う前に
「切り過ぎた前髪」
うっかり夏に生まれた恋。
もこもこの雲は見るたびに気持ちを昂らせてきたけど、ぽこぽこした鱗雲を見かけるようになって、このままでいいのかなって、思うようになった。
旅行や遠足の前の晩みたいに、ソワソワしている。
普段と変わらない明日の朝。
ひとつ違うのは、私の髪型。
真っ青な空に、もこもこの入道雲。
ぽこぽことした鱗雲。
行ったり来たりの季節は、空も同じ。
そして、私の気持ちも同じ。
すっぱりと割り切れないままだけど、形から入ろうと思った。
あいつは、どんな反応をするのだろう。
それ次第では、私の今後の身の振り方もだいぶ変わってくるけど。
あいつ好みの髪型も、服装も、もうやめる。
私を私として見てほしいから。
────空模様
「それは自己暗示であり呪いでもある」
「鏡にうつる自分に向かって『お前は誰だ』って言い続けると、発狂するらしいぞ」
「あー、なんか聞いたことある。何回もやってるうちに自分が誰かわからなくなって、鏡の中の自分に恐怖心を抱き始めるとかなんとか」
教室の隅でこの話を聞いてから暫くは、鏡のなかの自分と目を合わせるのが怖かった。
小さい頃、鏡が怖かったから尚更。
鏡にうつる母は、普通に見ているのとどこか違って──左右逆だということが、何故かとても怖かったのだ。
今、その鏡に真っ直ぐに向き合っている。
家のためだけに嫁ぐ私が、しなくてはならないことは、いつまでも私のなかに巣食うあの人への想いを断ち切ることなのだろう。
今からすることは、自己暗示であり、呪いでもある。
正気でなんていられるはずがない。
どんな代償でも払う。
全て忘れても構わない。
良かったことでさえも。
自分の想いを捻じ曲げるくらいならば、心ごと全て自分で葬ってしまおう。
鏡にうつる自分に手を伸ばす。
────鏡