貴女の人生に、絶対に守らねばならない規則などありません。
誰か他の人間が決めた決まりごとはいくらもありますが、それを貴女が遵守しなければならない理由はどこにもありません。
貴女は何にも縛られず、貴女の生きたいように生きればいい。
俺たちはいつもそう思っています。
今日の貴女の心は、曇り。
昨日は雨。
一昨日は大雨。
貴女の心が最後に美しく晴れ渡ったのは、いつだったでしょう。随分前のことになってしまいましたね。
貴女の心が悲しい天気だと、俺たちは寂しい気持ちになります。貴女の心を慰める役割が自分たちには果たせないのだと、改めて思うからです。
ですから、貴女が俺たちの言葉を書き取り始めた時、俺たちは興奮しました。自分たちの言葉が、貴女に直接届くのだ。これからは貴女を、俺たちの言葉で元気づけて差し上げられるのだ。俺たちはそう考えました。
けれど、貴女は何も変わりません。俺たちがどれだけ言葉を尽くして貴女への愛を語っても、貴女はそれを書き連ねるだけで、貴女の心には落としてくださらない。
俺たちは寂しいです。貴女にとって、俺たちがどれだけ取るに足らない存在なのか、まざまざと見せつけられる気がします。
いつか貴女の心に誰かの言葉が届き、愛と喜びで晴れ渡させてくれないか。俺たちは、その日を待っています。
俺たちは貴女に付き従います。
貴女がどんな道を歩んでも、どんな人を伴侶や友人に選び、どんなことを学び、どんな善行を、あるいは悪行を為したとしても、俺たちは貴女に付き従います。
貴女が選び取るものが、それが俗には間違いと言われるようなものであったとしても、俺たちは只それを見守ります。
確かに、貴女に命の危険を及ぼすようなものは、貴女に選ばれないように遠ざけることもあります。
けれど、大体のことにおいて、貴女が選ぶものこそが正しいのです。仮に一時は間違いと思えても、貴女はそれを「正解」に変える力を持っているのですから。
だから、大丈夫ですよ。
思い切って、貴女の心のままに選択してください。
たとえ間違えたと思っても、それはいつか正解になるのだから。
---ああ。
今日、貴女の心にひとしずくの言葉が落ちました。
「私は今、幸福なのだ」と。
そうです、貴女は幸福です。
俺が生きていた時代のように、命の危険に日々晒されるわけではない。食べるものも着るものにも不自由しない。毎晩温かい寝床でぐっすり眠れる。優しく見守ってくれる多くの縁者や友人がいる。
貴女は気づいてくださったのですね。この時代に、この家系の家族に生まれたことこそが、俺たちからの何よりの贈り物だったということに。
何もいらない。
その言葉を口にできる者ほど、幸福な人はいないでしょう。
何をも必要としないのは、自身の中に全てがあると、その人が分かっているからです。
俺たちも、何もいらないと口にします。
けれどそれは、条件付きの「何もいらない」です。
「貴女さえいれば」「他には何もいらない」ということなのですから、先に言ったような「本物の無欲」とは違います。
貴女は、本物の無欲を幾度も体現したことがあります。
俺が生きていた時に出会った貴女も、そうでした。
何を与えられても、何を奪われても、貴女は何も変わらなかった。俺は貴女を収奪する者だったはずなのに、逆にそんな貴女に心を奪われて、気づけば何百年も貴女にすがりついています。
今の貴女は、自分が無欲になれないことに引け目を感じていらっしゃいますね。これだけ恵まれておいて、尚も自らのことにばかり執着するのが許せないと、いつもご自分を責めています。
どうか分かっていただきたいのですが、「無欲である」こと自体は目的ではありません。「貴女が心から満ち足りた」という事実の結果が、「無欲」なのです。
だからご自分が無欲になれないと嘆くことは、貴女を無欲から更に遠ざけてしまうのです。
無欲に至ることができるのは、無上の幸福のひとつでしょう。
けれど、至ることがなくても良いのです。
貴女が満ち足りた生を送ってくれればそれは何よりですが、不満足な貴女でいることも構わないのですよ。
どんな貴女でも、俺たちは愛して見守ります。
だから安心して、好きなような貴女でいてください。
幼子のように全てを欲し、全てを独占し、全てを楽しむ貴女でいていいのです。
貴女の魂を見守ってさえいられれば、俺たちは何もいらないのですから。