お題『夢が醒める前に』
「おはよう」
爽やかな声に私は目をさます。そして耳を疑った。
私がガチ恋している若手舞台俳優の声そのものだからだ。
向こうから料理しているであろう音が聞こえてきて、そういえば彼が料理が得意だったことを思い出す。
私はベッドからのろのろと体を出すと、整理整頓された部屋に驚いた。普段私が住んでいる場所は、お世辞にもきれいとはいえない。床に洗濯物の山なんて存在しないし、ホコリがたまっていることもない。
自分の住処からは考えられないほどきれいな部屋を進むと、美味しそうな匂いがする。テーブルの上には、自分じゃ絶対買わないようなお洒落な感じがする藍色のお皿があって、そこに溶けかけのバターが乗ったほんのりきつね色したトースターと、黄身がつやつや光っているベーコンエッグが乗っている。お皿と同じ色のマグカップには、紅茶。
そして目の前には、推しが座っている。彼が今は私のためだけに微笑みかけている。
そんな時、急に見えないなにかによって私の意識が引き上げられていきそうな感覚を覚えた。
今いるこの空間が『夢』であることを自覚してしまう。
いやだ、まだ起きていたくない。せっかく彼が目の前にはいるのに。
夢が醒める前にすこしでもいいから、彼と一緒にいたいのに!
暗い部屋の中で私は手を伸ばしながら目をさます。
狭いマンションの一室に、片付けを面倒臭がった結果の洗濯物の山がうっすらと見える。そういえば、ハウスダスト持ちのくせに怠慢で掃除機なんてここ数ヶ月かけていないことを思い出した。そして、当然推しはここにいない。
現実に引き戻された私は、布団をふたたび被って目をつむった。
お題『胸が高鳴る』
自転車で夜道を走っていたら、信号無視のトラックにはねられた。跳ね飛ばされ、意識を手放しながら俺は自分の人生を呪った。
今までだって大した事ない人生だ。だけど、そこからいいことだってあっていいはず。なのに、こんな終わり方はないよ。
そうこうしているうちに気がつくと俺は見知らぬ部屋にいた。
岩をしきつめて出来た壁。いつも寝ていた煎餅のようにぺちゃんこな布団からは考えられないほどふかふかのベッド。それから、俺をゆさぶるオレンジ色の髪を尻まで伸ばした勝ち気そうな美少女――俺はこの子をどこかで見たことがある。
「あれ……? ここは……」
「あ、やっと起きた。はやくしないと遅刻するわよ?」
「遅刻……?」
わけがわからないでいると美少女は腰に手を当てため息をついた。
「今日は入学式じゃない。寝ぼけてないでさっさと準備しなさいよ」
そう言って彼女は壁にかけてあった黒いマントのような服を俺に投げてよこした。俺はそれを受け取る。少女はすこし頬をふくらませた後、「ほんっとーにアタシがいないと駄目なんだから」とぼやきながら美少女は部屋を出ていった。
俺はベッドから出ると先程彼女から投げてよこされた服に袖を通す。この衣装も既視感がある。
まるで好きでずっと読んでいたラノベの主人公がいつも着ている制服みたいだ。いや、むしろまったく同じと言っていい。
それに見覚えがある勝ち気なオレンジ色の髪の少女。
「もしかして……」
着替えた後、洗面所目指して部屋を出て、鏡を見て確信した。
「おいおい……嘘だろ……?」
俺の口角が徐々につり上がっていく。紫がかった黒い髪。すこしぼさぼさの髪の中肉中背の少年が鏡にうつっている。やっぱり、俺が好きなラノベの主人公だ。
こいつは元々町中の武器屋の息子だけど、実は天性の魔法の才能があって、それが認められたからこれから金持ちしか入れない王立魔導学院へ入学して、数々の事件を解決しながら数々のヒロインからモテる。だけど、それにうつつを抜かさず最後には世界の敵を倒して、歴史に名を残す魔法使いになる男だ。ちなみにさっきのオレンジ髪の少女もヒロインの内の一人で隣の家に住む幼馴染だ。これから彼女を含めて四角関係になる。
俺はこの物語がどう進むのか知っている。前世よりずっと楽しい人生になることは確実だ。
「面白くなってきたじゃねぇか」
好きなラノベの主人公に転生出来た俺は、これから起こる数々の出来事に胸を高鳴らせていた。
お題『不条理』
私は今、望まぬおしくらまんじゅうを強いられている。
周囲を人に囲まれるだけじゃなく、電車内に無理矢理人を詰め込んでる状態だから否応なしに人と体がくっつく状態になっている。
私は今、見知らぬ男性のスーツの背中に顔をくっつけている状態になってしまっている。
別にその人がいい匂いがするからでは決してない。
どっちかというと加齢臭がするから、こんな状況でない限りごめんこうむりたいのだ。
向こうが背中でこちらを圧してくるが、周囲の人壁でがっちりホールド状態になっているから移動したくても無理。
次の駅に着くまでひたすらこの状態でやり過ごすしかなかった。
しばらくして停車駅に着いて、人が降りていく。ターミナル駅だから他の駅よりも人が多い。
やっとこの状況から開放されて胸を撫で下ろしたのもつかの間だった。
「気持ち悪いんだよ」
不快感を伴った声が上から聞こえてきた。
齢四、五十代くらいのおっさんがこちらをゴミを見るような目で見下ろしてくる。
私の思考は急に頭を殴られたように一瞬停止した。
はぁー?
こっちだって好きでテメェの背中に顔をくっつけたわけじゃねぇし。むしろ気持ち悪いのはこっちなんだが?
っつか、なんで私が言われなきゃならないんだよ。不条理すぎんだろ。
おっさんから逃げるためにすこし空いた社内を移動しながら、こんなことを言いたくなるのをぐっとこらえた。