燈火

Open App
8/28/2023, 9:28:15 AM


【雨に佇む】


もういいか、と僕は走るのをやめた。
濡れないように頑張ったけど、これ以上は意味がない。
体も鞄もびしょびしょになり、髪からは水がしたたる。
荒く息を吐き、とりあえず木の下に移動した。

重なった葉の隙間から落ちる水が服を濡らす。
木ってやっぱり雨宿りには向かないんだな。
そんなことを思いながら、僕は空を見上げた。
黒い雲がここら一帯を覆っている。

今日は早く帰る約束だったけど、これでは難しそうだ。
スマホを取り出し、帰りを待つ君に電話をかける。
タイミングが悪かったのか、電波が悪いのか。
留守電に繋がったので謝罪の言葉を残しておいた。

朝、君に言われた通り、傘を持っていくべきだった。
どうせ荷物になって邪魔だから、と断ってしまった。
この悪天候を行けば、きっと明日は風邪を引くだろう。
しかし、このまま居ても時間が過ぎるだけ。

遅くなっては困るので、諦めてまた走ることにした。
スマホをしまい、葉の傘の外へ飛び出す。
自宅まで歩きで二十分だから、走れば十分で着くか。
傘を買おうにも、ずぶ濡れではコンビニに入りにくい。

幸い、濡れて困るものはないので鞄を頭上に持つ。
もはや腕が疲れるだけの無駄な行為だが、まあいい。
急いだおかげで、体感では五分ぐらいで家に着く。
「え、なんでいるの?」君が出かけようとしていた。

「いや、そっちこそなんで?」手には傘が二本。
もしかして迎えに行こうとしてくれていたのか。
「ちょっと待ってて、ってメッセージ送ったじゃん」
こんなに濡れちゃって、と君は大げさにため息をついた。

8/27/2023, 9:28:29 AM


【私の日記帳】


「知られたくない秘密は言葉にしてはいけない」
口に人差し指を当て、彼は勝ち誇ったように笑う。
手には〈日々。〉と題された大学ノートがある。
いや、「飲み物取りに行った隙に家探しすな」

ノートを取りあげ、埃をはらうように表紙を叩く。
無論、毎日書いているので埃など被っていない。
「ちょっとー、その態度は失礼じゃないですかー」
「失礼なのは君の行動ね」好奇心旺盛な思春期男子か。

頬を膨らませて抗議する、自称・良い子の二十三歳児。
「まさか読んでないよね」疑いの目を向けた。
あまり時間は無かったと思うが、念のため確認する。
「読んでないですよ、全然」わざとらしい棒読み。

つい先ほどの彼の発言を思い出す。
『知られたくない秘密』ってなんのことだろう。
読まれて困るようなことを書いた覚えはない。
それっぽいことを言っただけか、と勝手に納得する。

今日の目的だった勉強会を終えて、彼は帰っていった。
勉強会と言いつつ、ほとんど話していた気がするが。
一人になれば、いつも通り。夕飯を食べてお風呂に入る。
寝る前にノートを開き、書きたいことを綴っていった。

最後のページが埋まり、なんだか達成感を覚える。
日々の些細な出来事を書き留めるようになって約一年。
ノートの冊数もそれなりに増えてきた。
どんなこと書いたっけな、と軽い気持ちで読み返す。

このノートは、ちょうど今日、彼が手にしていた物だ。
最初から読み進めると、馴染まない文字を見つけた。
〈一緒に過ごすと楽しい〉に矢印を向けて〈俺も〉って。
やっぱり読んでるし、独り言に返事をするな。

8/26/2023, 8:32:45 AM


【向かい合わせ】


ホームに着いたら、ちょうど電車が来ていた。
それを無視してベンチに座り、次の電車を待つ。
アナウンスが流れて電車が出発すると遮蔽物がなくなる。
僕の目的は次の電車ではなく、正面にある駅のホーム。

電車なんて、二本後でも三本後でも学校に間に合う。
わざわざ余裕を持って家を出たのは不安からではない。
反対周りのホームには、制服のスカートをなびかせる人。
僕の心も視線も奪う、カッコいい女の子。

彼女を初めて見たのは、ひどく慌ただしい朝だった。
目が覚めて壁時計を見たら、針が示すのは十一時。
遅刻だと思い焦り、必死に走って駅に着く。
時刻表を確認しようとスマホを見ると、まだ六時。

なんだ、と気が抜けてベンチに腰を下ろす。
きっと壁時計は電池切れで昨日の夜に止まったのだろう。
深呼吸して息を整えつつ前を見ると、そこに彼女がいた。
凛と立つ姿に、僕は一瞬で惹きつけられたのだった。

部活終わり。そんな彼女がなぜか対面に座っている。
途中で乗ってきたときは目の錯覚かと疑った。
眠そうにあくびを噛み、時おり目を擦りながら本を読む。
意外な一面を知って、なんだか可愛らしく見える。

まさか同じ電車を利用するとは夢にも思わなかった。
だって、彼女のいたホームは反対周りだから。
環状線ではないので乗る区間が重なることもない。
遠くに見るだけだった彼女は、目の前で眠ってしまった。

もうすぐ最寄り駅に着くけど、彼女は起きない。
周りに人が少ないとはいえ、声をかけるのはどうだろう。
でも困るかもしれないと思い、覚悟を決めて起こす。
おもむろに目を開けた彼女は、わずかに頬を赤らめた。

8/25/2023, 6:39:39 AM


【やるせない気持ち】


仲の良い友人の二人が結婚した。
彼とは高校から、彼女とは大学からの付き合いだ。
交際を始めたばかりは気を遣っていたのが懐かしい。
当時、二人も私が寂しがることを不安視したと聞いた。

今ではそんな素振り互いにすっかり無くなったが。
ただ困るのは、二人ともに惚気けられること。
愚痴だ相談だと理由をつけて、遠慮も恥じらいもない。
まあ、変に距離を取られるよりはいいか、と甘んじる。

仲睦まじい夫婦の家にはなんとなくお邪魔しにくい。
そんな私の気持ちをよそに、よく宅飲みの誘いを受ける。
「なんで?」を言い過ぎて口癖になりそうだ。
外ならまだしも、家では二人で飲めばいいのに。

「店で飲もうよ」誘ったのは私から。
「お、いいねー」「絶対残業しない」乗り気な二人。
良さそうなお店を探して、地図をそれぞれに送る。
一緒に来ると思っていたけど、彼が先に到着した。

すぐに来るはずだった彼女は一時間たっても着かない。
「遅いな」顔を見合わせた直後、彼のスマホが鳴った。
声は聞こえなくとも顔色を見れば悪い知らせだとわかる。
電話を切った彼が呟く。「緊急搬送、されたって……」

いつか訪れるとしても、突然の別れは受け入れがたい。
しかし涙を見せない彼の姿に、私は歯がゆい思いを抱く。
誰よりも彼女を大切に思う彼を冷たい人だと周りは言う。
泣いてもいいよ、と慰めるのは簡単だけど。

ゆっくり近づき、彼の隣に並んで彼女の写真を見つめた。
一瞬こちらに視線を向け、静かにまた前を向く彼。
ごめんね、って。私は何を謝ろうとしているのだろう。
適切な言葉が見つからなくて、目を伏せた。

8/24/2023, 7:42:26 AM


【海へ】


遠い地平線の先、遥か南に君の故郷は沈んでいる。
元より水害の多い場所ではあった。
でも、だからこそ自然と生きる術を心得ていた。
その知恵も技術も、一緒に沈んでいったけど。

故郷を愛している君は、最終便の船で街を出たと言う。
標高の低い場所だから水位の上昇にはすぐに気づいた。
有効な対策は見つからず、その街は捨てるしかない。
そんな状況になってから住人は避難を始めた。

原因はわからずとも、水位は急激に上がったりしない。
緩やかに街を飲み込み、帰る場所を奪っていく。
およそ六年前、君の故郷で最も高い時計台が沈んだ。
今でも懐かしんで見に潜る人がいるほど親しまれている。

水位は去年より十二センチも上がったらしい。
水路の有名なこの街は、ついに歩ける場所がなくなった。
扉を開けると水が入るから、みんな窓から出入りする。
近い将来、この街も沈んでしまうのだろう。

一昨年、体の不自由な人や病人は避難を勧告された。
健常者も状況を見て避難するよう注意喚起があった。
僕はまだ残るつもりだが、君は逃げる気すらないらしい。
「疲れるからもういいよ」遠い目をして、諦めている。

君は故郷にたくさんの思い出を置いてきた。
この街が沈むとき、僕と君の生活も沈んでいく。
そんなのはもうたくさんだ、と君は泣きそうな顔をする。
「じゃあ、ここで終わりにしよう」僕は提案した。

いつか街が沈むより、僕らの人生の終わりが先だ。
溺れて苦しむのは嫌なので、自分たちで終わりを選ぶ。
そしたら、この街に残される僕らを参る人はいない。
「二人で静かな場所に行こう」顔を合わせて笑った。

Next