『天国と地獄』
歌劇だな
音楽家の妻を神が取り合う物語だ
劇中で冥界に閉じ込められるのは妻の方だ
しかし、わたしが知っている物語では音楽家の方が閉じ込められた
女が助けないから音楽家は泣き続ける
悲しい気持ちを歌にして地上の女を呼び続ける
鬱陶しい歌なんだが最後の審判を待つ魂で溢れた冥界では唯一の癒やしだ
じめじめとした歌は続き神々さえも同情した
男が昼夜を問わず呼び続けるから女はやがて衰弱する
結局男は女に捨てられ、女は地上で別の男と生きていく
つまり、男が捨てられた話を聞かされただけだった
空の色が変わり始めた夜明けの手前で、カーテン越しに白い夜を見るんだけど、私はあれを月の光だって勘違いしてたのよ。考えてみたら月の光なわけないんだよね。家の角度とか窓の配置とか、もうとっくに月は西に沈んでて私が見てるのは夜明けの白んだ太陽の光なんだよ。だけど、ずっと真夜中を白い月が煌々と照らしてるんだと思ってた。
月暈っていうらしいんだけど、満月を白い輪がぐるりと囲んでる夜のあれ。冷たい冬の空に見えたりする、あんな感じで雲一つない冷たくて明るい夜空なんだなぁって、春先の明け方4時に思ってた。時間どころか季節まで過ぎていたことにも自覚なくって。横たわってぼんやりする形式の睡眠を毎日続けていたら、月にだって願うよね。寝たいって。いやはや、まさか太陽だったとは!
『月に願いを』
『降り止まない雨』
雨が降ると気が沈む。
あの日を思い出すからな。
私たちは怒っていた。
ずっと続くと思った日々に、お前は他人を持ち込んだ。
ずっと傍にと望んだ意味を、お前は姑息に捻じ曲げた。
ずっと変わらないと信じた気持ちは、お前の無粋な言葉と態度で軽蔑と嘲笑に変わっていた。
晴れた夜に雨宿りをさせてくれと言ってきたときも、いつも通り馬鹿げた話をするんだろうと思っていた。
お前が悲しむのは見るに耐えないと言いながら、二人が苦しむ結末は愉快だった。
あの日から、全部が違ってしまったな。
雨は好きだ。
必ず止むからな。
『あの頃の私へ』
あの頃は、弱いんだと思っていた
周りには愛してくれる誰かがいると思い込んでいた
わたしは、特別な人間だと信じて疑わなかった
未来は輝かしいものだと思い込んでいた
確かに、わたしは愚かだった
純真さは儚くて脆いものだ、何よりも無垢で無防備だ
あの頃はその無垢さと無防備さゆえに夢見てただろう
だが、今は違うな
わたしより、ずっと強い
『逃れられない』
低い天井に窓のない通路とかアルミの棚や小物で溢れた店内とか。家路についてる人間とかこれから用事が始まる人間とか。視界が人のカタチで煌めいてたり澱んでたり。そういうものに囲まれて、頭がくらくらっとしだしたら、途端に息が難しくなるの。謎の重力で潰された空気から少ない酸素を取り出せなくなって、脳が重く鈍って視界が廻るの。そうなったら、さも平気な顔して慎重かつ優雅に建物や人垣から離れて外に出て、空と風を確認してから情けない息を吸う。
あなたは目に見えないから空気なんて意識しないと言ったけど、私はこんなふうに空気の扱いによく四苦八苦してる。意識しないくらいには馴染んでて、見えなくてもいいくらいには当たり前。そんなものが生きていくには重要で必要で、なのに見えてなければ無に等しいなんて言われちゃう。軽く軽く扱われちゃう。だけど、それを私はそれで正しいとも思うの。