〇遠くの街へ〇
たたん、たたんと規則的な音を立てて列車は走る。
窓から吹き込む風に、微かな潮の香り。
私は読んでいた小説から顔を上げ、移りゆく景色へと目をやった。
目的地などない。ただ、私は逃げ出したかっただけ。
周りの評価、他人の目、期待、嫉妬……
応えようとする度に、まるで溺れているかのように息がしづらくなった。
窓枠に肘をつき、手のひらに顎を預ける。
ぼんやりと車窓からの景色を眺めていると、遠くにきらりと光るものが見えた。
―海だ―
その駅で降りたのは、私1人。
ベンチと小さな駅舎があるだけの、無人駅だった。
改札を出て、薄暗い待合いを抜ける。
ざぁっと塩気を含んだ風が髪の毛を揺らし、飛ばされそうになる麦わら帽子を片手で抑えた。
ふと、顔をあげる。
駅から真っ直ぐに伸びた、緩やかな上り坂。
昼食の買い出しだろうか。両脇に立ち並ぶ昔ながらの商店には、チラホラと買い物客の姿も見えた。
坂を登りきったら、何が見えるのだろう。
あるいは、ただの街並みが広がっているだけかもしれない。
それでも何故か、行かないという選択肢は
私の中に存在しなかった。
ゆっくりと、坂を登る。
商店で店主と談笑する主婦の会話、店先のラジオから流れる軽快な音楽。
どれも日常の風景であるはずなのに、どこか遠くに感じられる。
この町では私だけが異質なのだと、突きつけられた気がした。
視界が、開けた。
いつの間にか上り坂は、緩やかな下りへと変わっている。
目の前には、知らない町。そして、その向こうに海が見えた。
聞こえるはずのない波の音が、私の心を攫っていく。
ああ、私はきっと呼ばれたんだ。
この町に……そして、あの海に。
〇君は今〇
午前4時。
夜明け前の薄暗い部屋で、微かに震えるスマートフォン。液晶が君からのメールを表示した。
「おはよう」
たった4文字。
それでも私にとっては、この上ないラブレターだ。
忙しい君がくれる、朝一番のメール。
その瞬間にはきっと、君の心に私がいる。
それが……たまらなく幸せな事だと思うから。
○落ちていく○
カサカサと乾いた音を立てて、枯れ葉が降り積もる。
赤や黄色…色とりどりの葉が、木枯らしの奏でるメロディーで舞い踊る。
足元に溜まった落ち葉を爪先で蹴り上げ、君は楽しそうに笑っていた。
転けやしないかとはらはらしている僕の事など気にもしていない。
日が傾き、世界はオレンジ色に包まれる。
そろそろ帰ろうと手を差し出せば、小さな手で握り返された。
目を擦る君を抱き上げて歩き出せば、眠りに落ちるのにそう時間はかからないだろう。
僕の小さなお姫様。
いったいどんな夢をみるのかな?
○夫婦○
冬の朝の肌を刺すような冷たさに身震いをしながら、身体を起こす。
隣の主人を起こさないように布団から抜け出し、キッチンへ。
ヒーターのスイッチをOn。
ヤカンに水をいれてお湯を沸かす。立ち上る湯気を横目に、マグカップにインスタントコーヒーと紅茶のティーバッグをセットした。
久しぶりの夫婦揃っての休日。
何かを計画している訳ではないが、なにもしないのも勿体ないような気がする。
「おはよ」
欠伸を噛み殺しながら主人が顔を出す。
袋から食パンを2枚取り出してトースターにセット…冷蔵庫を開けてバターとジャムを取り出して、くるりとこちらを振り向いた。
「今日は目玉焼きの気分だなー?」
にこにこと笑う顔にこちらも笑顔になるのを感じながら、冷蔵庫から卵を2つとベーコンを取って貰う。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
フライパンを温めてベーコンを敷く。程よく火が通ったところへ卵を割り入れ、白身が固まってきたら蓋をして火を止める。
沸かしたお湯の残りでカップスープを入れている主人に、今日の予定を尋ねてみた。
「んー…そうだなぁ。天気も良さそうだし、写真でも撮りに行こうか」
出来上がった朝食を運びながら、行き先へと話題は移っていく。
カメラを持ってどこへ行こうか?
今日はまだまだ始まったばかりだ。
「君のことは今でも好きだよ。でも、別れてほしい」
ーごめんー
そう言って頭を下げる彼を、私はぼんやりと見つめていた。
昨日まで普通だったのに。一緒に出掛けて、ふらっと入った喫茶店の料理が美味しくて。
送って貰って、別れ際のキス…何も変わらない、いつも通りのはずだったのに。
思考が纏まらない。どうしたら良いのかも分からない。
震える唇から、やっとのことで紡いだ言葉は
驚くほど静かだった。
「…どうして」
ぴくり。彼の肩が震える。
ゆっくりと身体を起こし、私を真っ直ぐに見つめる瞳には
苦悩の色が浮かんでいた
「…出来るなら、君とこのまま…恋人のままで居たい。でも、無理なんだ」
深く、息を吐く。永遠にも感じるような一呼吸…彼は、苦しそうに言葉を紡ぐ。
「昨日、母に聞いた。君が…俺の妹だって。産まれてすぐに父親が居なくなって、母一人では育てられないから…親友の養女にして貰ったって」
…こんなに好きなのに。愛しているのに。
手を伸ばせば、触れられるのに。
何を言っても、何をしても…彼を苦しめるだけ。
頬を熱いものが伝う。いつもなら拭ってくれる指先も、今日は震えているだけだ。
「…わかった」
絞り出した私の声も、震えていた。
「今まで、ありがとう。愛してくれて、ありがとう」
ー幸せでしたー
精一杯の笑顔は、上手く笑えて居なかったかも知れない。それでも、これ以上顔を合わせていれば…欲が出てしまう。
「…さよなら。幸せに、なって」
踵を返し、一歩。彼は動かない。
距離にして2m。私の背中を彼の言葉が追ってきた。
「…愛していた、よ。どうか、幸せになって」
振り返ることは出来なかった。
この胸の痛みは…いつか時間が癒してくれるのだろうか