キクツキ

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〇遠くの街へ〇

たたん、たたんと規則的な音を立てて列車は走る。
窓から吹き込む風に、微かな潮の香り。
私は読んでいた小説から顔を上げ、移りゆく景色へと目をやった。

目的地などない。ただ、私は逃げ出したかっただけ。
周りの評価、他人の目、期待、嫉妬……
応えようとする度に、まるで溺れているかのように息がしづらくなった。

窓枠に肘をつき、手のひらに顎を預ける。
ぼんやりと車窓からの景色を眺めていると、遠くにきらりと光るものが見えた。
―海だ―

その駅で降りたのは、私1人。
ベンチと小さな駅舎があるだけの、無人駅だった。
改札を出て、薄暗い待合いを抜ける。
ざぁっと塩気を含んだ風が髪の毛を揺らし、飛ばされそうになる麦わら帽子を片手で抑えた。
ふと、顔をあげる。
駅から真っ直ぐに伸びた、緩やかな上り坂。
昼食の買い出しだろうか。両脇に立ち並ぶ昔ながらの商店には、チラホラと買い物客の姿も見えた。

坂を登りきったら、何が見えるのだろう。
あるいは、ただの街並みが広がっているだけかもしれない。
それでも何故か、行かないという選択肢は
私の中に存在しなかった。

ゆっくりと、坂を登る。
商店で店主と談笑する主婦の会話、店先のラジオから流れる軽快な音楽。
どれも日常の風景であるはずなのに、どこか遠くに感じられる。
この町では私だけが異質なのだと、突きつけられた気がした。

視界が、開けた。
いつの間にか上り坂は、緩やかな下りへと変わっている。
目の前には、知らない町。そして、その向こうに海が見えた。
聞こえるはずのない波の音が、私の心を攫っていく。

ああ、私はきっと呼ばれたんだ。
この町に……そして、あの海に。

2/28/2026, 2:59:31 PM