インターネットの広告を見た。
『敏腕プロデューサーに認められたら賞金100万円ゲット! わたしの5分をあなたに贈る特別招待状! 出場者募集!』
詳細を見ると米国でメディア王と呼ばれる男ボデフ・ブロンクスが面白いパフォーマーを集めているという。大道芸人として芸だけを磨いてきた僕にとって、これはまたとないチャンスだった。僕はこの企画に応募した。
「やあ、来てくれてありがとう。では、君のパフォーマンスを見せてくれ」
書類審査を通過した僕は、ボデフの前で渾身の芸を披露した。それは大道芸人生活15年の集大成とも言える5分間だった。
「いやあ、恐れ入ったよ。素晴らしい芸だった」
パフォーマンスの後、口を開いたボデフから出てきたのは賞賛の言葉だった。僕は天にも昇る心地だった。次の言葉を聞くまでは。
「じゃあ、賞金の100万円を君に贈ろう。…このまま帰っていいぞ」
「え? あの、賞金というのは…」
私は思わず聞き返した。
「なんだ知らないのか? 私の5分は100万円だ」
え、なんだこれ。クソアメリカンジョークじゃないか。
「ちょっと待ってください」
反論しようとすると、ボデフは遮るように言い返した。
「私を満足させられなかった者は、ここに100万円を置いて行ったんだぞ。あと5分、ここで議論をするなら君にも100万円を置いて行ってもらわなきゃならない。早く行け」
言い返すのも虚しく、僕はおずおずと帰ることにした。詐欺にかかった気分だったが、持ち出しがなく済んでよかったと思うことにした。
数日後、私の部屋に郵便物が届いた。それは米国のテレビ番組の契約書だった。
「あの国のこういう文化嫌いだわ〜!」
葬儀場の煙突から立ち上る煙を見ても、なに一つ実感が湧かなかった。話さなければいけないことは、まだたくさんあったはずなのに。隣について教わらなければいけないことが、山ほどあったはずなのに。私はいつまでも、煙から目を逸らすことができなかった。
「お疲れ様。俺は仕事に戻るけど、お前は?」
同期の山本がタバコをくわえながら歩いてきた。何人かの同僚と一緒に会社に戻るらしい。この会社で生きる人間として、それが正しいのだろうと頭では分かっていたが、私にはそれが非情なことのように思えた。
「少し、残っていくよ。悪いな」
社長はこんな私を許してくれるだろうか。でも私には、今にも崩れ落ちていきそうなこの気持ちを立て直す時間が必要だった。
「ああ、あんまり思い詰めるなよ」
山本は私の方を2回叩いて去って行った。
私は葬祭場を出て、駅に向かわずにこの辺りを歩くことにした。なにを考えるべきかもわからなかったが、とにかく歩きながら考える時間だけが欲しかったのだと思う。降りたこともない駅で、馴染みのない通りを黒い服のまま歩いた。平日の昼間、人通りも多くなく、誰に咎められることもなかったが、ふと目に止まった緑に囲まれた一角が気になって、吸い寄せられるようにそこに入って行った。
そこは少し大きめの公園だった。樹木の林立する区画や鴨が泳ぐ池などがある手入れの行き届いた庭園のようだ。隠れたかったわけではないが、目的もなく住宅街を歩くよりは落ち着ける。私はこの中で考える時間を過ごすことにした。
三崎社長は私に生きがいを与えてくれた人だった。だらだらと就職活動をしていた私は、就職説明会でこの会社を見つけ、そこで社長に出会い、その人柄に惚れて入社を熱望した。あの人の夢は私の夢であり、あの人は私の人生の指針になった。それなのに。45歳で亡くなるなんて、早すぎる。
公園には池に向かって穏やかに流れる川があった。私は流れに逆らうように川のほとりの歩道を歩いていて、釣りをしている老人に気がついた。
「なにが釣れるんですか?」
気づいたら話しかけていた。老人はこちらに気づいて、微笑みながら言った。
「さあ、なにが釣れるんでしょうね。実は魚には詳しくなくて」
警戒されているのか、はぐらかされてしまった。いや、本当に知らないのか?
「ただ釣りだけが目的なんですか?」
よく見ると釣った魚を入れるバケツなんかは持っていないようだ。
「どうでしょうね。釣れないことが目的なのかもしれません」
変わった人に話しかけてしまったんだろうか。でもこの人なら何をぶつけても返してくれそうだ。
「お邪魔じゃなければ、少しお話よろしいですか?」
「ええ、見ての通り釣れる気配もありませんので。構いませんよ」
老人は釣竿を垂らしたまま答えた。
「私の人生の指針をくれた人が亡くなってしまって」
「それはご愁傷様です」
「亡くなったのは勤めている会社の社長なんですけど。この先、どう生きればいいかわからなくて」
「指針がなくなって、進路がわからなくなってしまった、と」
「そうです。そういうことです」
私の中でモヤモヤしていたものを老人が言葉にしてくれた。
「私は昔、船乗りをしていました。ああ、船長などではなく、一船員でした。海の上では様々なことが起こります」
私は黙って続きを聞くことにした。
「羅針盤は常に同じ方向を指し示すものですが、船は目的地へとまっすぐに突き進むわけではありません。風に煽られ、嵐に遭い、障害物を避けながら進んで行くものです」
「たしかに、社長がどれだけ芯を持った人でも、常に仕事が上手く行っていたわけではありませんでした」
「ブレることのない強力な指針を持っていることは幸せなことです。ですが目的に向かって進むあなたは、絶えず変化しているものです」
そう言っている間も、老人の持つ竿から垂れる糸は、一向に揺れる気配はなかった。
「今も仕事から逃げ出している自分が不安で仕方がないんです」
私は飲み込んでいた本心を吐き出した。
「羅針盤があるからといって、必ずしも目的地にたどり着けるわけではありません。困難が立ちはだかったなら、それを避けて寄り道するのは生きるための戦略です」
「でも、同僚は逃げずに仕事に戻って行きました」
「現実から目を逸らすために、仕事で紛らしているのかもしれません」
私はその言葉にハッとなった。そんなことは考えもしなかった。
「羅針盤があったって、目的地が変わることは間違いではありませんよ。それに、あまり羅針盤に頼りすぎるのもよくありません」
「どういうことですか?」
「変わらないものに安心を見出し、常に変わっていくものに不安やわくわくを感じる人は多かった。ですが、今は変わらないことの方に不安を感じるという人が多いのではないでしょうか」
「社長はよく停滞は衰退だって言っていました」
「どちらが正解というものでもありません。変化から逃れることはできないし、それが苦しければ自分が次の変化を起こさなければいけない。そこには行動した結果があるだけです」
私はこの老人の言葉に心を奪われていた。変化を起こすなら今だと思った。
「では、私はそろそろお暇しますよ」
そう言って老人は竿を水面から引き上げた。
「だったらあなたに、新しい私の羅針盤になっていただけませんか?」
「それは…、やめたほうがいいでしょう。私も老い先長くはないでしょうから」
老人の竿の糸の先には、針がついていなかった。
あの子ったら近頃ますます聡明になっているんですの。頬はほっそりとして凛々しく、目の輝きも一段と鋭くなって、書物を読む手にも力が入っているように見えますわ。学者様になる日も近いのではないかしら。ずっと部屋の中に居ても、明日に向かって歩く力を持っているようでしたわ。
私がここに来て、もう六度も雪解けを見送っていますけれど、その間一度も、あの子は雪を見に縁側に出てくることはありませんでしたわ。私もそうね、縁側にいる時間よりもあの子といる時間の方が長くなっているかしら。
そうそう、私、ご主人様とお医者様が話をしているのを聴いていましたの。「もう長くないだろう」って。それを聴いたとき、私は嬉しくって思わず「にゃあ」と叫んでしまいましたの。でもご主人様は私の姿を認めて、唇に人差し指を当てながら「この話はマリコには内緒だよ」って嗜めましたわ。
私はそのとき、まあ、失礼しちゃうわって、口には出さないけれどそう思って、ふいってご主人様から首を逸らしましたの。ご主人様が驚かせようとしている事ぐらいわかりますわ。あの子に告げ口なんかしませんわよ。それにしても心が躍りますわ。あの子の不自由な生活はもう長くないだなんて。
「お父さん、何度言ったらわかるの? こんなものではダメよ。なんでもしてくれるって言ったじゃない。早くイングランドから取り寄せてちょうだい!」
あの子はますます元気になって、ご主人様と言い争うことも多くなってきましたの。ご主人様を困らせるのは、私の専売特許だったはずですのに。
最近のあの子は植物の知識に夢中で、海外の論文を読むほどなの。でもあの子がいつも私に語ってくれるのは、10年も20年も先のこと。あの子はそれこそ世界中を旅して、天文の知識も身につけて、新しい銀河を発見することを夢見ているの。
いつもいつも「私には時間がない」って言うのよ。あの子、人間の年齢でまだ十にもなっていないのに。
「お父さん、私の体のことぐらい、私が一番わかっています。そんな薬ではダメなの。お願いですから、このお医者様にはお引き取りいただいて」
私が部屋に入ったとき、お医者様はあの子に細長い棒を向けていました。先端に針がある形状から、私はそれが注射器であることを理解しましたわ。
「マリコ、お父さんは…」
私はそのとき、ご主人様がまだあの子の意見に耳を傾けていない事に心底呆れてしまいましたの。
「何度も言っているじゃない。イングランドから薬草の知識を持ったドゥルイドを呼び寄せてって!」
それでもヤブ医者はあの子の手を取って、無理やり細い針を刺そうとするものですから、私はついに頭に来て、飛び上がってそのヤブ医者から注射器をふんだくってやりましたわ。驚くご主人様に向かって、鼻息を荒げて睨みつけてやりましたら、ついにご主人様は言いましたの。
「わかったよ。君の言うとおりにしよう」
ひと月ほどが過ぎた頃でしょうか、縁側のある私たちの家に黒い見慣れない衣装を着たご婦人がいらしたのは。ご主人様と連れ立っていらしたかと思うと、すぐにあの子の部屋に入って行きました。もちろん私も部屋の中まで付いて行きましたわ。
そしたらあの子とそのご婦人は、二、三言葉を交わしただけですぐにお互いを理解して、ご婦人は彼女の求める薬を調合し始めましたわ。
ご婦人がいらしたのは一週間にも満たなかったのではないかしら。あの子は見る間に元気になって…ついに、ついによ。自分の足で立って、部屋の外に、我が家の縁側まで歩き出ることができましたのよ。
でも、あの子にとって自分の体のことなど、もう些末なことなのでしょうね。この一歩から、あの子はもっと遠くへと歩いて行くんですもの。
最近、君の体調が良さそうで、少し安心しています。ずっとベッドの上で辛いだろうに、僕が新しい本を持って行くと目を輝かせて喜んでくれる君に、僕は甘えてしまっているのかもしれないね。
自分の本棚から、君に分かりそうな本を少しずつ読ませているけど、君はすべてを理解して、どんどん難しい本が読めるようになっていくんだね。お父さんは驚いています。
僕は色々なことを学んできて、世界の生き物や歴史や物語をたくさん知っているけれど、君の体を治す医学を学んでいなかったことが、心底悔やまれます。無力なお父さんを許してください。
いまはお医者さんとも話しながら、自分でも病気のことを勉強しているんだ。
猫を拾ったことを伝えていなくてごめんなさい。あれはしょっちゅう外を出歩いて、そのまま家に上がり込むから、悪いものを運んでくるんじゃないかと思って、君には会わせられなかったんだ。
でも、仲良くなったようで良かった。冬の間はあれも外に出ないだろうから、ずっと一緒にいさせてやれるよ。
僕はね。たった一人でがんばっている君のことを、たった一人僕だけしか知らないことが悔しかったんだ。こんなにも聡明で、生きようと懸命にがんばっているのに、外の世界のことをなんでも知っているのに、世界は君のことを誰一人知らないなんて。
だから、猫一匹でもお友達ができて、君のことを知ってくれる友達ができて、本当に良かった。
きっと、きっと必ず、君が外に出られる日が来るように、お父さんもがんばるよ。
わたしの世界は、この狭い部屋の中にしかない。ほとんどの時間をベッドの上で生活していて、窓の外の景色もずっと同じ。
「マリコは体が弱いから」
外の空気は体に良くないんだって。お父さんはいつもそう言うの。お母さんも体が弱かったから、わたしには少しでも元気でいてほしいって。
でもわたし、外の世界のことなら何でも知ってるのよ。お父さんがいつも、わたしに本を読み聞かせてくれるから。本の中には、世界どころか宇宙があるの。図鑑を見れば、遠い異国の地に生える植物や、不思議な声で鳴く水鳥にだって出会えるもの。アンドロメダ星雲ってご存知? とっても美しい光の渦なのよ。
そんな時だったわ。夜中、わたしが寝付けなくてベッドの中でもぞもぞしていると、いきなり小さいかたまりが飛び込んできたの。
びっくりして起き上がると、それはかわいい猫ちゃんだったの。お父さんがわたしに内緒で飼い始めたんですって。それからわたしの宇宙はもっともっと広がったわ。
ちいさな肉球が、白い紙に黒い星雲を描いたから。