あの子ったら近頃ますます聡明になっているんですの。頬はほっそりとして凛々しく、目の輝きも一段と鋭くなって、書物を読む手にも力が入っているように見えますわ。学者様になる日も近いのではないかしら。ずっと部屋の中に居ても、明日に向かって歩く力を持っているようでしたわ。
私がここに来て、もう六度も雪解けを見送っていますけれど、その間一度も、あの子は雪を見に縁側に出てくることはありませんでしたわ。私もそうね、縁側にいる時間よりもあの子といる時間の方が長くなっているかしら。
そうそう、私、ご主人様とお医者様が話をしているのを聴いていましたの。「もう長くないだろう」って。それを聴いたとき、私は嬉しくって思わず「にゃあ」と叫んでしまいましたの。でもご主人様は私の姿を認めて、唇に人差し指を当てながら「この話はマリコには内緒だよ」って嗜めましたわ。
私はそのとき、まあ、失礼しちゃうわって、口には出さないけれどそう思って、ふいってご主人様から首を逸らしましたの。ご主人様が驚かせようとしている事ぐらいわかりますわ。あの子に告げ口なんかしませんわよ。それにしても心が躍りますわ。あの子の不自由な生活はもう長くないだなんて。
「お父さん、何度言ったらわかるの? こんなものではダメよ。なんでもしてくれるって言ったじゃない。早くイングランドから取り寄せてちょうだい!」
あの子はますます元気になって、ご主人様と言い争うことも多くなってきましたの。ご主人様を困らせるのは、私の専売特許だったはずですのに。
最近のあの子は植物の知識に夢中で、海外の論文を読むほどなの。でもあの子がいつも私に語ってくれるのは、10年も20年も先のこと。あの子はそれこそ世界中を旅して、天文の知識も身につけて、新しい銀河を発見することを夢見ているの。
いつもいつも「私には時間がない」って言うのよ。あの子、人間の年齢でまだ十にもなっていないのに。
「お父さん、私の体のことぐらい、私が一番わかっています。そんな薬ではダメなの。お願いですから、このお医者様にはお引き取りいただいて」
私が部屋に入ったとき、お医者様はあの子に細長い棒を向けていました。先端に針がある形状から、私はそれが注射器であることを理解しましたわ。
「マリコ、お父さんは…」
私はそのとき、ご主人様がまだあの子の意見に耳を傾けていない事に心底呆れてしまいましたの。
「何度も言っているじゃない。イングランドから薬草の知識を持ったドゥルイドを呼び寄せてって!」
それでもヤブ医者はあの子の手を取って、無理やり細い針を刺そうとするものですから、私はついに頭に来て、飛び上がってそのヤブ医者から注射器をふんだくってやりましたわ。驚くご主人様に向かって、鼻息を荒げて睨みつけてやりましたら、ついにご主人様は言いましたの。
「わかったよ。君の言うとおりにしよう」
ひと月ほどが過ぎた頃でしょうか、縁側のある私たちの家に黒い見慣れない衣装を着たご婦人がいらしたのは。ご主人様と連れ立っていらしたかと思うと、すぐにあの子の部屋に入って行きました。もちろん私も部屋の中まで付いて行きましたわ。
そしたらあの子とそのご婦人は、二、三言葉を交わしただけですぐにお互いを理解して、ご婦人は彼女の求める薬を調合し始めましたわ。
ご婦人がいらしたのは一週間にも満たなかったのではないかしら。あの子は見る間に元気になって…ついに、ついによ。自分の足で立って、部屋の外に、我が家の縁側まで歩き出ることができましたのよ。
でも、あの子にとって自分の体のことなど、もう些末なことなのでしょうね。この一歩から、あの子はもっと遠くへと歩いて行くんですもの。
最近、君の体調が良さそうで、少し安心しています。ずっとベッドの上で辛いだろうに、僕が新しい本を持って行くと目を輝かせて喜んでくれる君に、僕は甘えてしまっているのかもしれないね。
自分の本棚から、君に分かりそうな本を少しずつ読ませているけど、君はすべてを理解して、どんどん難しい本が読めるようになっていくんだね。お父さんは驚いています。
僕は色々なことを学んできて、世界の生き物や歴史や物語をたくさん知っているけれど、君の体を治す医学を学んでいなかったことが、心底悔やまれます。無力なお父さんを許してください。
いまはお医者さんとも話しながら、自分でも病気のことを勉強しているんだ。
猫を拾ったことを伝えていなくてごめんなさい。あれはしょっちゅう外を出歩いて、そのまま家に上がり込むから、悪いものを運んでくるんじゃないかと思って、君には会わせられなかったんだ。
でも、仲良くなったようで良かった。冬の間はあれも外に出ないだろうから、ずっと一緒にいさせてやれるよ。
僕はね。たった一人でがんばっている君のことを、たった一人僕だけしか知らないことが悔しかったんだ。こんなにも聡明で、生きようと懸命にがんばっているのに、外の世界のことをなんでも知っているのに、世界は君のことを誰一人知らないなんて。
だから、猫一匹でもお友達ができて、君のことを知ってくれる友達ができて、本当に良かった。
きっと、きっと必ず、君が外に出られる日が来るように、お父さんもがんばるよ。
わたしの世界は、この狭い部屋の中にしかない。ほとんどの時間をベッドの上で生活していて、窓の外の景色もずっと同じ。
「マリコは体が弱いから」
外の空気は体に良くないんだって。お父さんはいつもそう言うの。お母さんも体が弱かったから、わたしには少しでも元気でいてほしいって。
でもわたし、外の世界のことなら何でも知ってるのよ。お父さんがいつも、わたしに本を読み聞かせてくれるから。本の中には、世界どころか宇宙があるの。図鑑を見れば、遠い異国の地に生える植物や、不思議な声で鳴く水鳥にだって出会えるもの。アンドロメダ星雲ってご存知? とっても美しい光の渦なのよ。
そんな時だったわ。夜中、わたしが寝付けなくてベッドの中でもぞもぞしていると、いきなり小さいかたまりが飛び込んできたの。
びっくりして起き上がると、それはかわいい猫ちゃんだったの。お父さんがわたしに内緒で飼い始めたんですって。それからわたしの宇宙はもっともっと広がったわ。
ちいさな肉球が、白い紙に黒い星雲を描いたから。
あー、もう最悪。いきなり今日行けなくなったってどういうことよ。全部手配したの私なんですけど。仕事だって余裕ないのに休みも合わせて、キレイなカッコだってしてきたわよ。浮かれてたの私だけなわけ? 信じらんない。
寒空の中、待ち合わせ場所だったベンチに座り、スマホに向かってひとしきり悪態をついていた。男を見る目がないのかな。
いきなり強い風が吹いてきた。勢いに負けて首を縮める。…負ける? やだ、もう負けたくない。強風なんかに負けてたまるか。私は勢いを込めて顔を思いっきり風の来る方へ向けてやった。負けないんだから。
パサッ。
ウ、ム〜ン〜!
顔を向けた途端に紙切れが顔に張り付いた。前が見えない。慌てて顔に手をやる。
わっぷ!
見るとそれは映画のチケットだった。落とし物? 日付は今日の…1時間後だ! 持ち主を探さなきゃ。
周りを見渡す。幸い私はたったいま一日の予定がなくなった暇人だ。いくらでも探してやれる。
少し先に、服についているあらゆるポケットをまさぐりながらキョロキョロとあたりを見ている挙動不審な男性がいた。
「あの、もしかしてチケット落としましたか?」
「あ、あーそうです! 私の…です」
「ああ良かった。どうぞ」
私はチケットをその男性に差し出した。しかし男性は手を出してこない。
「え? あの…」
「あのー、よろしければ、差し上げますよ」
は? どういうこと? 新手の詐欺?
「ああ、そりゃ怖いですよね。すみません。実は私、フラれちゃいまして。そのチケット、余ってるんです」
うわー、同じ境遇の人だぁ。かわいそうに。思わず私もって言いそうになったけど、それは言う必要ないか。
「あ、失礼しました。ご予定ありますもんね。困りますよね」
「あ、その、いいんですか? そしたら、お言葉に甘えちゃおうかな」
その流れで私は、この人の隣で恋愛映画を観ることになった。少し話した感じでは、悪い人ではなさそうだ。
映画が終わり、そのまま解散かとも思ったが。
「あのー、お礼と言ってはなんなんですが、このあとフレンチレストランでもいかがですか? 実は私もフラれてしまって」
カレから別れを切り出された時、私の頬を涙が伝った。昼休みの屋上、一緒にお昼を食べようと思って来たのに。なによそれ、自分で好きにさせといて、飽きたから捨てるっていうの? 自分でも感情が昂っているのがわかった。
「ちょ、おい、そんな色で泣くなよ。え? 怒ってるの?」
カレ…元カレのその声で現実と焦点が合う。しかしそれは現実とは思えないほど真っ赤な視界だった。
やばっ、感情出ちゃってる。私は慌てて後ろを向いて涙を隠した。手で涙を拭うと、指まで赤く染まってしまった。やだ、制服も汚れちゃうじゃん。ああ、こんな日に限ってお気に入りの白いハンカチだ。
「あ、おい待てって! ごめんな! 傷つけるつもりは…」
私は手で顔を覆ったまま逃げるように校舎の中へ向かった。お前の言い訳なんか聞きたくない。それより今は一刻も早く涙を止めなければ。人に見られたら恥ずかしさで別の色の涙が出ちゃう。
昼休みの校舎は廊下にもたくさんの生徒がいるが、みんな自分たちの話に夢中でこっちを見ていない。お手洗いまで誰とも顔を合わせずになんとかたどり着くことができた。
洗面所の蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。透明な水が私の涙を洗い流してくれる。
幼い頃から人前で涙を見せるなと言われ続けてきた。感情を見せるのがはしたないとか、子どもっぽいとか、そういうことではない。涙の色で感情がバレてしまうからだ。
子どもは特に感情のままに泣くから、むしろ周りの大人はその涙の色で、なんで泣いているのかを判断していた。痛みの涙は赤黒いから、探せばどこかにすり傷が見つかるし、悲しみの涙は青っぽいから、お友達とケンカしたことが予想できた。
大人になると感情をコントロールするのが上手くなる。だから泣くことも少なくなるし、涙の色も透明になってくる。
「まさか赤で泣くとは思わなかったなぁ」
放課後、マックで事の顛末を親友のアカリに話した。
「見たかったなぁ。ミサキが怒って泣くところ」
今日は、自分が泣いたことにも驚いたし、その色が赤だったことにも驚いた。
「やめてよ、恥ずかしかったんだから」
「でもカレシにはそれだけ不満があったってことでしょう? 別れてよかったのよ」
「わー、なんかドラマみたいなセリフ」
そこで二人でわっと笑った。
ドラマや映画で、涙は重要な意味を持つ。作者が込めた想いは、ここ一番というシーンに俳優の涙の色で描くことができるから「最高の涙が撮れればその映画の成功は約束される」なんていう格言もまことしやかに吹聴される。演技の中で自在に涙の色を操れる女優さんは「涙の女王」と呼ばれ、様々なヒット作に出演することになる。
「そっかぁ、私いまドラマみたいな恋してたのかぁ」
悔しいけどなんか嬉しい。
「あれじゃん。ドラマのお決まりの展開。『赤い涙のあとは、必ず復讐劇になる』。今頃カレシ君、ビビりまくってるんじゃないの?」
「あはは、いい気味だ」