あなたのもとへ身を寄せてから、もう三年が経つのですね。窓の外が白く染まるのを見て、そんなことを思いました。どれだけ歳月を重ねても、私があなたの腕に抱かれて眠ることはありません。
身寄りを失い、根無し草のように放浪していた私に、夜風をしのぐ宿を与えてくれたばかりか、こんな立派な縁側のあるお家に住まわせていただけるなんて、望外の幸せでございます。
毎朝同じ時間に食事を出していただける生活が来るなんて、それまでは夢にも思わなかったのですよ。それなのに私ときたら、気まぐれにいらないと言ってそのままお外へ出かけて行くこともありましたね。困らせるつもりはなかったのですよ。私が本能に従って進む性格だってことぐらい、あなたはご存知でしょう?
あなたには私の他に大切な人がおありでしたのね。私にとってその人はこのお家の先客でした。あなたがその人のお部屋で親密な時を過ごしておいでなのが悔しくて、少しやきもちを妬いておりましたの。あなた、私には手も触れてくださらないのに。
だから私、あの人のお部屋にいたずらをしに行ったんですのよ。寝ている顔をめちゃくちゃにして、引っかき傷でも付けてやろうかと思ったの。
私が「覚悟なさい!」と叫んだら、あの人はバッと飛び起きて、満面の笑みで私を覗き込んだの。あなたもあの笑顔にやられたのね。あの無垢な御顔には、傷ひとつ付けられなかったわ。汚してはいけないと思いましたの。
それから私があの子と仲良しになったの、あなた知らないでしょう? あの子ったらそのまま私に飛び付いて、柔らかい指で私の身体中を撫で回したのですから。そんなことをされたら私も気持ち良くなってしまって…。
あなたはあの子に、このお家にあるたくさんの本を持って行って、おはなしを読んで聞かせてらしたんですってね。ええ、全部あの子から聞きましてよ。それで、あの子もお気に入りのおはなしを私に教えてくれるんですの。私は途中で眠たくなって、最後まで聞けないこともあるのだけれど、それでもあの子は優しく私を撫でてくれるんですのよ。
気が付いたら、こんな語り口になっておりましたわ。あなた、なんて古風なおはなしを読み聞かせておいでだったの? こんなにもたくさんの言葉を覚えてしまったら、もう私「にゃあ」なんて鳴けませんわよ。
あなたはいつかいつかと機会を窺っていたのでしょうけれど、決してあなたの腕になんか抱かれてやるもんですか。私は決めましたのよ。あの縁側から見える景色が真っ白になる間じゅう、この子の手の中で過ごすって。
そしてお庭の土が見える頃になったら、たくさん外に出て、お部屋から出られないあの子に、私が見聞きしたありのままをおはなしするんですから。
そしたらまた、あの子の温かい手のひらで、優しく撫でてもらうんですから。
「続いてのエントリーはこの本です」
冬眠社の営業担当が、審査員に本をそっと差し出した。
「ふーん『泣いても笑っても日暮里人』ねぇ。何ページに誤字があるの?」
「タイトルです」
「え? タイトル?」
「正式なタイトルは『泣いても笑っても日本人』です」
「うわー、盛大にやったねぇ! 最高じゃん! 採用採用!」
冬眠社の地下にある大ホール。普段は出版披露パーティや式典に使う大広間だが、年に一度、その年に出されたあらゆる出版社の書籍が集められる。
「それにしても、誤字脱字っていくら見返しても無くせないもんだねぇ」
長年ゴシップ誌の編集長をやっていた文田春彦が書籍部門に異動してきて最初に出した企画『細かすぎて繕つくろわれない日本語』。校閲をすり抜けた誤字を集めた趣味の悪い書籍だ。シリーズ化してもう第六弾が進行している。今は五次審査の最中だ。
一年かけて読者から誤字を募集し、見つけた誤字がこの本に採用された読者には賞金が与えられる。
ここに収録されることは書籍編集者にとって最大の汚点とされたが、賞金と名誉を求める読者のおかげで出版業界全体の売上が底上げされたという事実はなんとも皮肉である。
「続いてはこちらです」
次に営業が渡した本は『細かすぎて繕われない日本語 第五弾』だった。文田の眉がピクリと動く。
「この部分です」
営業が誤字のあるページを開いて見せた。文田はその部分をじっと見つめ、にやりと笑い、そっと本を閉じた。
「いいねぇ」
冬眠社の地下にある大ホール。そこで今日は、ある書籍のベストセラー記念パーティーが開かれていた。
堆く積まれたその本は『細かすぎて繕われない日本語 第六弾』。帯には「文田からの挑戦状! 第五弾に隠された謎を発見した読者は現れたのか!」という煽情的な文句が踊っていた。
カナデの実家に帰省していた最終日、折角だからと越谷レイクタウンに二人で行くことにした。湖のほとりに大きくて長いショッピングモール建てられている。全てを見て回るのは一日かけてもできる気がしない。
特になにが欲しいという物もないから、暖かいモール内を散歩して回るようなレジャーに落ち着いた。仕事柄モールに来ることは多いけど、あまりゆっくりウインドウショッピングをすることはない。
新しいもの好きのカナデは外からお店を見るだけでも楽しそうだ。
「あ、見て見て! VR体験やってるよ!」
家電のブースの前に大きく【VRゴーグル試遊体験】のパネルが出ている。中に入ると、障害物がない広いスペースになぜか人工芝が敷かれているスポットがあった。
「こちら、最新の機種でございます。お客様がまだ見たことのない景色をご覧いただけますよ」
こういう謳い文句を聞くと身構えてしまうのが私の性格だけど、内心ではやってみたい気持ちもある。
「面白そう! 私見てるから、ナオからやってみて!」
カナデは前のめりで子どものようにはしゃいでいる。一人で来てたら遠慮してただろうな。背中を押してくれるのがありがたい。
「じゃあ、やってみます」
私は手に握るスティックと呼ばれるものを持ち、ゴーグルを被せてもらった。
「おわ!」
いきなり目の前に恐竜が現れて、思わず声を上げてしまった。これは子どもの頃に図鑑で見たトリケラトプスという種類かな。外でカナデのにやにや笑いが聞こえるが、振り向いても翼竜が空を飛ぶ荒野が広がっているばかりだ。
「このデモ機は自動で場面が変わります。まもなく変わると思いますよー」
係の人の声が外から聞こえた。すると次の瞬間には目の前が鮮やかな花畑になっていた。青い空と先の先まで花で埋め尽くされた空間は美しいけど気持ち悪い。スティックを手で動かすと花も撫でられたように曲げられ、離すと反動で戻ってくる。その時にふわっと花弁が舞い散る。
その後も場面はいくつか変わり、仮想現実の進歩を見せつけられた。ゴーグルを外し、現実に戻ってくる。
「はい、お疲れ様でした〜」
係の人がお決まりのフレーズを口にする。
「次、私、やりたいやりたい!」
カナデは居ても立っても居られない様子だ。私が外したスティックを受け取ってすぐに装着する。
私はいま見たVR空間の光景を思い返していた。見たことのない風景、まったく新しい体験、映像技術の進歩。こういうことを知っておくのは必要だな。
「いっくよ〜」
カナデがノリノリでゴーグルを付けた。
「キャー!」
カナデは絶叫して後ろにのけぞり、そのまま尻もちをついた。大丈夫か、と言いかけたが
「こわいこわい! あはは! なに恐竜さん? カワイイ!」
すぐに慣れてスティックで恐竜を撫でているようだ。その姿がおかしくて、私も思わず笑ってしまった。
場面が切り替わるごとにカナデはオーバーリアクションで応えた。途中から私はスマホで動画を撮り始めていた。
私のまだ見ぬ景色は、もっと身近で探せるような気がした。
A「オレさぁ、最近ずっと同じ夢を見るんだよね」
B「えー、そんなことあるんだ。ちょっと怖いな」
A「なんか寝てても居心地が悪いっていうかさ」
B「夢って深層心理を映すとかって言うよね。なんか意味があるんじゃないの?」
A「つまんないんだよね」
B「え? つまんないの?」
A「先に進めないのが、嫌でさぁ」
B「先に進めない?」
A「いつも同じところから始まって、同じところで終わるんだよ」
B「おお、同じ夢だもんな」
A「なんか、リセマラしてるみたいでつまんないんだよ」
B「リセマラ? スマホゲームで最初にいいキャラが出るまでチュートリアルを繰り返す、あのリセマラ?」
A「解説ありがとう。そう、だから、あの夢の続きを見たいんだよね」
B「んー、それって、いまここで寝たら、その夢が見られるってこと?」
A「ああ、寝られたら、見ちゃうと思うよ」
B「じゃあさ、夢を見始めたら、寝言で教えてよ。あの夢きた! って。そしたらその寝言と会話して、次のステージに行かせてやるから!
A「やってみよう」
A「あ、あの夢きた!」
B「お、いまどこにいるの?」
A「なに言ってんだよ、いまお前と漫才やってるじゃんかよ」
B「ああ、現実じゃなくて、夢の中で」
A「え? だから、夢の中で、夢の漫才やってるよ」
B「そっかー、ごめんな、最近このネタばっかりやってるもんなぁ。つまんなかったかー」
A「なんか、リセマラしてるみたい」
B「リセマラ? スマホゲームで最初にいいキャラが出るまでチュートリアルを繰り返す、あのリセマラ?」
A「解説ありがとう。そう、だから、あの夢の続きを見たいんだよね」
B「あー、ごめんごめん! 一回起きて、一回起きて」
A「なんだよ、もう少しで続きが見られそうだったのに」
B「いや、このままだと僕も夢の中に閉じ込められちゃうから。お客さんを置いて迷宮に入ってくとこだったから」
A「またこの展開だよ、いつもここで終わっちゃう。なあ! あの夢の続きはどこで見られるんだよ!」
B「わかったよ、続きは楽屋で見よう。どうもありがとうございました〜」
「なんで毎回同じミスをするの?」
「いいよ、あとは私がやっとくから」
やってしまった。感じ悪い。余裕がなくなるといつも強い言葉を使ってしまう。こんなつもりじゃないのに。
こうなると仕事場の空気は一気に凍りつく。ここでジョークのひとつも言えればいいんだけど、いま、私が言ったらすべて皮肉なブラックジョークに聞こえる。
仕事ばかりしていると、自分が冷たい人間に思えてくる。実際にそうなんだろう。自分は仕事ができる方だとは思わないけど、できない人が「自分はダメだ」みたいな風にSNSで吐き出すのはイライラする。
上司がキツイ、できる人はいいよ、意識高いねー笑、ジブン三流大学なんで…
知らねーよ! 全部言い訳じゃん。ひとつも笑えないんですけど。
「あー寒いー」
仕事場の空気も冷たかったが、外に出ると一層寒さが増す。
自分が冷たい人間に感じたら、私はいつもお笑いライブに行くと決めている。特定の推しがいるわけでもなく、その日に行って入れそうなライブに当日券で入ることにしている。
「どうもー、始まりました『デタラメライブ』。オープニングMCのマカロニピッツァでーす!」
芸人さんはオープニングから会場を温めて、ネタに入りやすいようにする。私の心もゆっくりと溶けていく。
ネタが始まると、みんな個性あふれる技術で私たち観客を笑わせてくる。自分が選んだ道で、自分が面白いと思ったものを全力で表現する。舞台の上では言い訳もできない。
私は現実を忘れるぐらい笑い転げた。
「やー、ありがとうございました〜」
気づけばもうエンディングの時間になっていた。最初とは別のコンビがMCに立っている。
「なんか、今日のお客さん温かいねー」
やめてよ。温かくしてもらってるのはこっちの方じゃない。
「そうですねー、みなさんこんなに笑っていただいて」
笑いに来たんだから、当たり前じゃない。
「なかなかいないですよ、こんなに笑ってくれるお客さん」
芸人さんはそうやってすぐ持ち上げる。
「ホントに、今日と同じネタでも笑いゼロの時とかあるからね」
そうなのか…。
「少しでも笑い声があると安心する」
ふーん、笑えばいいんだ。笑うと温かいんだ。いいこと聞いたな。
明日から、仕事場でも笑ってみよう。もっと余裕ができたら、みんなを笑わせてみよう。そうすれば少しは温かい人に見えるかもしれない。