「よいお年をお迎えください」
そう言ってパーソナリティーは12月最後の放送を終えた。
「お疲れ様です。今日もいい放送でした」
ブースを出ると、タケさんが声をかけてきた。
「なに言ってるの。お互い様じゃない」
ディレクターでありミキサーであり…いや、しゃべる以外の仕事は全てこの人が担っている。番組を始めて24年、二人だけで作ってきたラジオだ。
「今日もたくさんメール来てますよ」
「ホント? みんな年末すぎて聴いてないんじゃない?」
タケさんはプリントアウトしたメールの山を手渡してきた。
「…ありがたいねぇ」
放送後、コーヒーで一服しながら放送中に読めなかったメールに目を通す。ラジオはリスナーにとって情報や娯楽であり、ときには話し相手にもなる。私が話したことで、記憶が呼び起こされ、自分はこんなことがあった、それはもっといいやり方があるなど、生活の知恵を教えてくれることもある。
市井の人々が紡いだ自分の言葉は、私にしか読むことができない、残されない民俗史だ。いつか語れる日のために私はいつも目に焼き付けておく。
「これ、とっておいて。次のときに読めるように」
タケさんに数枚のメールを返す。
「はい。たしかに」
タケさんはそれを保存用のメールボックスにしまった。
「じゃあ、また…、あ、よいお年を」
「ええ、よいお年を」
ラジオ番組のオファーをもらって以来、ずっと通っている地方のFM局。ラジオが終わった午後は晴れやかな気分でのどかな田舎町を車で走る。いつにも増して静かな町に、年末の空気を感じる。
穏やかに年が暮れていく。
「えー、あけましておめでとう。なんか、昨日の今日でちょっと恥ずかしいですね。聴いてるみなさんも同じですよ。元日からいつもと変わらないラジオを聴いてるんですから。恥ずかしいと思いなさい。ということで…」
お昼の帯番組に年末も正月もない。ラジオはリスナーにとって、時報であり、日常だ。ゴミ出しのたびに会うお隣さんと変わらない。
「昨日こんなメールが届いてました。えー、ラジオネーム『木製憲武』さん。『私の工場(こうば)は大晦日の今日も出勤です。親方が急に取ってきた仕事の納期がキツすぎて、加工機械の前で年を越しそうです。年末手当と残業代をふんだくろうと思っています。今日も親方と一緒に聴いています。放送がんばってください』いや親方に聞かれてんじゃねーかよ! 大丈夫なの? 木製憲武さん。えー、職業は木材加工ということで、いいラジオネームですねー。文字を見ないと伝わらないんですけど」
ラジオパーソナリティーは、今日もリスナーと番組を作っている。
カナデの実家での生活は、大掃除を手伝うというミッションでハリが生まれた。ルームシェアしている自分たちの部屋は棚に上げて、カナデのお母さん(ヨウコさん)の役に立ちたいと思いながらやると掃除をする手も捗る。
「家のことはいいから、レイクタウンにでも行ってきなさいよ」
とヨウコさんは言ったけど、お互いそんな気分でもなかった。
ベランダの窓を拭きながら、捲った腕と顔に冬の風が吹きつけた。冷たくなった雑巾も手に染み込んでくる。大掃除の風習がなんで真冬なのかと、日本の歳時記を恨めしく思う。でも真夏にやったところで暑すぎてやる気が起きないのは同じだ。
キッチン周り、テレビの裏、蛍光灯など、普段手の届かないところをカナデと私であらかた片付けると、チャイムが鳴った。ヨウコさんが玄関から戻ってくると、2人に号令をかける。
「はいはーい。ほら、テーブルの上だけ片付けて! お昼にしましょう」
手には宅配ピザが載せられていた。
「なんか懐かしいなぁ。大掃除するとき、いつもピザ頼んでた」
「バタバタしてキッチンも使えないからね。片付いてから料理するとお昼遅くなっちゃうし」
お手伝いのご褒美を堪能しながら、カナデとヨウコさんの大掃除あるあるを聞いていた。家族の生活感がうかがえて楽しい。
「二人は自炊してるの?」
ヨウコさんが私たちに聞く。
「いちおう当番制でやっています。でも仕事の都合もあって、できる方がやるっていう感じです」
私が答えた。
「ナオさんがしっかりしてて安心だわ。カナデが迷惑かけてない?」
「もーやめてよー。ちゃんとやってるってば」
「いえいえ、ルームシェアを始めて、本当に良かったと思ってるんです。料理だって、自分では作らないような凝ったものを作ってくれて。この前はカルパッチョだっけ? オシャレな料理作るんですよ」
「へー、意外ね〜」
そう言って笑うヨウコさんもかわいらしい。
「お母さんに教えてもらった料理以外にも、いろいろ研究してたくさん作れるようになったんだよ。私、料理好きかも」
「やる気になるまでが長いけどね」
「ひどーい。たしかにナオが夕飯作る方が多いけど!」
「この子すぐ調子に乗るんだから」
この一年を振り返っても、四月にルームシェアを始める前と後では、生活がガラリと変わった。それまでは仕事をして寝るだけの生活だったが、今は毎日、朝起きるのも部屋に帰るのも楽しみだ。家に自分以外の人がいる感覚を久しぶりに味わっているからかもしれない。でもカナデとの生活は、もっと奥の方で心が和らいでいる気がする。そのカナデの雰囲気はヨウコさんから譲り受けたものなのかな、とここに来て思った。
カナデとヨウコさんが二人で笑っている姿を見ると、心が温かくなる。ふと首を外へ向けると、部屋の角にある鏡と目が合った。鏡の中の自分は、見たことのない顔で笑っていた。その顔の後ろには笑い合う親子が映る。この鏡に切り取られた一枚の絵では、三人が同じ一つの家族のようだった。
「そうだ、今日の記念に三人で写真撮りましょう」
私は思い立って二人に告げた。
「あのー、冬だからって、親がみかんを買ってくるんですよ」
「うん、みかんいいじゃん。いま季節だし、おいしいし」
「でもみかんって、皮をむいて食べなきゃいけないじゃないですか」
「まあそうよ。手でむけるし、お手軽でいいじゃない」
「僕あれ、イヤなんですよね」
「はい?」
「まず皮をむくために爪をこう、刺して、めりめりってむいてくじゃないですか。もうこの時点で爪の間に皮が挟まるでしょ。それで上手くいかないとみかんの薄皮も破いて汁が出ちゃって」
「まあそれもあるけど」
「最終的に手ぇベタベタになっちゃって」
「そんなのその場でむいてるんだからしょうがないでしょ」
「だってこの手でスマホ画面触りたくないじゃん」
「わーめちゃくちゃ現代っ子ですねー」
「他の果物だったらね。例えばリンゴ」
「んー」
「最初っから白くてちょっと黄色がかった色しててさ、そのままフォークで刺してパクって」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って」
「ぜんぜん手が汚れない」
「お前さぁ、みかん以外の果物、手間かかってるの知らないだろ」
「はぁ?」
「リンゴの皮だってお前のお母さんとかが果物ナイフとかで皮をむいて、ひと口サイズに切って出してきてるんだよ」
「リンゴの…皮?」
「こいつリンゴの皮をないものと思ってるじゃん」
「いやリンゴに皮なんかないでしょ」
「お前Apple社のロゴ見たことないのかよ」
「あの太っちょピクミンみたいなやつ?」
「そう見えるかぁ! …じゃあメロンは?」
「あんなの下に持つところまで付いてて緑色の身の部分をスプーンですくうだけで食べられますからね」
「その持つところが皮なんだよ。あれも丸いメロンを食べやすいようにお前のお母さんが包丁で切って出してるの!」
「お母さんいつも家の中で寝っ転がってるだけだよ」
「お前あれだろ、魚が切り身で泳いでると思ってるタイプの人だろ」
「切り身?」
「切り身もわかんないのかよ」
「え? じゃあいつも家政婦さんが出してくれるマンゴーも?」
「あ、こいつ、いいとこの子でした〜! お母さんじゃなくて家政婦さんが出してくれてました〜!」
「ラフランスも、ドラゴンフルーツも、シャインマスカットも?」
「こいつ、いいとこの子でした〜! 出てくる果物ぜんぶ高級フルーツでした〜!」
「パイナップルだって、黄色くて透き通るような輪っかの形で、そのまま食べられる果物じゃないの?」
「パイナップルなんてでっかいトゲトゲがついた固い皮だぞ。あんなの扱うには手袋とか必要だわ」
「いやパイナップルは缶詰めでしょ」
「そこは知ってんのかい。もういいよ」
都心から電車に揺られること約1時間、数日分の着替えを詰め込んだ大きめの荷物で降り立ったのは越谷駅だった。
「埼玉って、近いね」
こたつでの会話からの成り行きで、年末の数日間をカナデの実家で過ごすことになった。二人とも無事に仕事を納めて冬休みに入れたので、こうして連れ立って向かっている。実家と聞いてちょっと身構えたが、毎日東京に勤める家族が住む家なのだから、東京から遠いわけがない。
「そうそう、ウチの会社、実家からでも通えるかもって思ったけど、満員電車とか考えたら私には無理だった」
満員電車。短い区間だけど、私も毎日経験している。あの苦痛を往復二時間と考えると確かにつらい。その点だけでも在宅ワークは可能な職種で広がるべきだと思う。
駅からバスに乗って10分程度、そこから歩いて3分のところにカナデの実家のマンションはあった。
「ただいまー」
玄関でカナデが大声で叫ぶ。すると奥からパタパタとスリッパの音が聞こえてきた。
「おかえりなさい。あらあらいらっしゃい」
カナデのお母さんはカナデにとてもよく似ていた。
「初めまして。カナデさんと同居している光峰ミツミネナオです」
「カナデの母のヨウコです。こんな何もないところまでありがとね」
家の中は観葉植物が多いという印象だった。白い壁に緑が映える。手入れの行き届いたきれいな家だ。カナデはここに高校を卒業するまで暮らしていたらしい。
リビングに通されて、ちょこんとソファに座る。やっぱり他人の実家は手持ち無沙汰ではある。
「お盆も帰ってこなかったから、今年は来ないかと思ったわよ」
ヨウコさんがお茶を出しながら小言を言う。
「夏は引っ越したばっかでゴタゴタしてたから」
「急にこの年末に来るって言うから驚いたわ。かわいいお友達まで一緒に」
「ナオが言ってくれたんだよ。実家帰ったら? って。それで、じゃあナオも一緒にって私が言ったの」
「そう、ナオさん、気を遣ってくれてありがとね。あなたの実家だと思ってくつろいでね」
「ありがとうございます。その、手伝えることがあったらなんでも言ってください」
くつろいでと言われても、である。
「私はもともと一人だって大丈夫なのよ。息子もだけど、みんなして私をお世話したいって言ってくれちゃって」
カナデのお兄さんはヨウコさんと同居しているんだったか。
「仲のいい家族ですね」
言ってからしまったと思った。お父さんがいないって聞かされてたじゃないか。
「旦那が出てったって話は聞いてると思うけど、その後からみんな優しくなっちゃってね。いい子に育ってくれたわ」
そういうものなのかな。いろんな家族があるんだ。
「お兄ちゃんは?」
「カナデが来るって聞いたら、出かけるって言って旅行に行っちゃったわ。長い連休だからちょうどいいって」
「そっか。楽しんでくるといいね」
薄情にも聞こえたが、妹が来るから母の心配がなくなったということなのだろう。カナデの返答にも、三人で暮らしてきた仲間としての信頼感が滲んでいた。
カナデが育った家で、カナデと暮らし始めた一年が暮れようとしていた。
手袋をなくした。どこかで落としたんだろう。いつも外したらコートのポケットにそのまま突っ込んでおくから、どこかに置き忘れることはないはずなんだけど。
革製で中に羊毛が付いていて、手を入れると真冬でも暖かい。お気に入りの手袋だったのに。
今日の自分の足どりをたどれば、見つけられないこともないか。そうだ、あきらめるのはもったいない。このあと予定もないし、探しに行ってみよう。
すぐに思いついたのは家電量販店だ。たしか入ってすぐにお手洗いを借りたから、そこで確実に手袋を外している。私はその店に向かった。
家電量販店に入ると一目散にお手洗いの中を探したが、手袋を見つけることはできなかった。目の前にあるベンチもくまなく見るが見当たらない。私はがっかりしてしばらくそのベンチに座っていた。
「こちら、無料でVR体験できまーす!」
あきらめで思考停止していると、威勢の良い声が耳に入ってきた。顔を上げると、そこは量販店のVRコーナーだった。はじめに来た時から興味がなくて素通りしていたんだから、特に用はない。
もう帰ろうかと思っていると、VRコーナーの奥にレザーアイテムのコーナーがあった。何が家電量販店なんだ。なんでも屋じゃないか。でもどうせなら新しい手袋でも買っていこうかと思い、そのコーナーに足を踏み入れた。
「手袋を探しているんですが」
中にいた店員さんに話しかける。
「はい、お客さんにぴったりの手袋、ございますよ!」
明るい女性の店員さんだ。一瞬で私に似合うものが何かわかるという。
「これなんかいかがですか?」
差し出された手袋は、まさしく先ほどまで自分が使っていたものと瓜二つだった。
「え、これ、ちょっとつけてみてもいいですか?」
「はい、どうぞ!」
私は興奮気味にその手袋に手を入れた。
「え、冷た! え?」
私は思わず手袋から手を抜いた。とてつもなく冷たい空気に触れているような感覚だった。手を見ると何か土埃が付いているような気がする。
「どうかされましたか?」
「え、いや、なんかこれ、変じゃないですか?」
「えー、とってもお似合いですよ〜」
あ、そういうことじゃなくて。
「それとお揃いのもので言うと…」
店員さんはどんどん勧めてくる。
「このネックウォーマーなんか似合うと思いますよ」
混乱しつつも言われるがままにネックウォーマーを持たされる。
「あ、頭から被るような形で首まで通していただいて」
いったん頭に乗せ、そのまま首元までグイと引っ張る。その瞬間、顔に痛みを感じるほど肌が冷たくなり、目の前に氷の大地が広がった。雪で覆われた世界にかまくらの家々が並んでいる。私はそのままあたりを見回したが、後ろを向いても遠くに雪山が広がるば…ガバッ!
「ちょっと、なに遊んでるんですか?」
ネックウォーマーを無理やり下まで引っ張られ、店員さんの顔がドアップで眼前に飛び出した。首元はまだ寒いままだ。
「はは、ネックウォーマー、顔に被ったまま、うろうろしないでくださいよ。おもろ」
店員さんは私の挙動にケラケラ笑っている。
「いや、これおかしいですって。なんかここの商品、異世界に…」
異世界につながってる? いよいよ何を言っているんだ? でもいま見た…映像? いや、肌に触れる空気の感覚、あれは本物じゃないのか?
「あ、と、は〜、あ、このブーツですかね。合わせて履いたらお似合いだと思いますよ〜」
もしかしたらそのブーツを履けば、あの世界を歩けるってことか? よーし…
「ちょっとちょっと! また勝手にウチの商品持ち出して!」
割って入ってきたのはVRコーナーの店員だった。ネックウォーマーとブーツを指差していきり立っている。
「あー、バレちゃったかー」
「え、あの、どういう?」
「この人いつもウチの最新VR機器を勝手に持ってくんですよ」
「だってデザインとかビジュアルとか、こっちにあった方が手に取りやすいでしょ。あとちょっとで売れるところだったのに」
「とにかく、これはVRの方に戻しますからね、お兄さんも、欲しかったらウチで買ってください!」
そう言ってネックウォーマーとブーツを持っていってしまった。そしてなぜか手元には手袋が残された。
「それだけでも買っていきます?」
「あ、これだけじゃいらないです」