「いってきまーす」
ナオは慌ただしく部屋を出ていった。昨日も遅くに帰ってきて、ほとんど会話もできずに寝てしまった。年末は忙しいって言うもんなぁ。
かくいう私も今日は出勤。新規のお客さんと対面の打ち合わせがあるらしい。寒い中をとぼとぼ歩かないといけない。静電気は気になるけど、もふもふのダウンでがっちり防寒をして部屋を出た。
「え? これを全部年内にですか?」
「カシマ、落ち着け」
あ、思わず大きい声を出しちゃった。でも課長、それは無理ですよ。今回の案件は化粧品メーカーの新製品に関するプロダクトイメージをデザインするという大きなプロジェクトだ。話が来た時点で納期までもう1ヶ月もない。
「年始のプレスリリースに間に合わせたいんです。今年のフロマリはこれで行くというのを新春にアピールするねらいです」
そんな大事な発表をこんなやっつけでやるわけ? しかもウチみたいな小さいデザイン会社に依頼して?
「ちなみに、なんで当社をお選びに?」
課長が切り出すと、フロマリの担当者は表情を崩さずに答えた。
「正直にお話しします。当初は大手代理店にお任せしていましたが、成果物に対してCEOの許可が下りず、契約を解消いたしました」
チラッと課長を見ると隠しきれない動揺が目に表れている。担当者は続けた。
「ですので、当社としても後がない状態で来ております。時間がないのも百も承知、成果に対する報酬は弾ませていただきます」
言い終わると、担当者は表情を変えないまま頭を下げた。
「課長、課長! ナカガワさん! なんでOKしたんですか? 無理でしょう!」
フロマリさんを見送った後、私はナカガワ課長に詰め寄った。
「落ち着けって。そもそも私に決定権はないんだよ。この仕事を受けるのは会社が決めたことだ」
なにそれ。今日の打ち合わせの前から決まってたパターンか。私は天を見上げた。
「それにこれはチャンスだろう。あのフローラル&マリーの広告なんてなかなか手掛けられるもんじゃないぞ」
誰もが憧れるブランド、それはそうだけど。
「私が、急かされてやる仕事、嫌いって知ってますよね」
「カシマ、そんな仕事にぜいたくばかり言うな。サポートはするから。絶対にカシマにも良い経験になる」
くぅ〜、わかってる、逃げてる場合じゃない。でも少しは悪態もつかせてほしいっ。
「ああもう! やります! 最高のもの作りますよ!」
「よし、昼休憩終わったらプロジェクトチーム作るぞ。今日中に詰めよう」
「うー、久しぶりに残業したなー」
会社を出る頃には外は真っ暗になっていた。フレックス制度に残業の概念はないが、一日の労働時間からすればだいぶ長く働いた。年末だからとか関係ないイレギュラーな案件だもんなぁ。
「さむいよ〜」
部屋に戻ると電気がついていた。あ、ナオの方が先だったか。
「ただいま〜。え? ごはん作ってくれたの?」
食卓には料理が並んでいた。
「うん、カナデも遅くなりそうって聞いたから、作っておいた」
ナオ昨日も遅かったのに、負担かけちゃった。
「ありがとう、ごめんね」
「なんで? お互い様でしょ」
また甘えてしまう。
「私も年末まで遅くなりそうなんだ」
「大事な仕事なんでしょ? 楽しみなよ」
「うん、がんばる」
「ほら、食べな」
「へへ、いただきます。一人暮らしだったら、絶対食べられなかったなぁ」
こんな時間に帰ってきたら絶対料理なんか作れない。
「私だって一人だったら作ってなかったよ」
「ルームシェア最高! はははっ」
「あーでもたまにはお惣菜買っちゃうかも」
「それは私も! 無理はしない!」
こんなことを正直に言えるなら、きっとこれからも上手くいく。
「じゃあ明日はお惣菜デーにするか!」
「賛成!」
私の部屋の片隅には、私だけが祈りを捧げる小さなパワースポットがある。
カラーボックスを三段積み上げてそのそれぞれをグッズで飾る。一段目はショップで買える市販品。二段目はコラボカフェで買い漁った限定品。三段目はイベントやファンミでしか手に入らない非売品。そして頂上には見開きファイルを三面鏡に見立てた祈りの空間。
もはや「祭壇」という名称で市民権を得ているその構造物は、180度すべてに推しの姿を配置した。
『イケメン執事が多すぎる』のキャラクター「神雅峰輝羅丸(こうがみねきらまる)」に魅了されて3年と4ヶ月。銀髪を後ろで束ねた長身メガネ、執事なのに命令口調のオレ様キャラ。私の人生はキラ様なしでは考えられないほどになっている。
アクリルスタンドを御神体として安置し、毎朝祭壇に祈りを捧げる。それが限界OLの心の支えになっている。
御神体はアクスタケースに入れて肌身離さず持ち運ぶ。御守りのようなものだ。
さあ御神体を携えて、今日向かうのは推し活グッズショップ! なんせ明日はキラ様の誕生日♡ 本人不在の生誕祭を盛大に催さなければならない! 一日をキラ様に捧げるためにもちろん有休を取ってある。
「いらっしゃいませ」
お店に入ると、メガネに長髪の男性店員さんが落ち着いた声で挨拶してくれる。二次元キャラを推す人にとってちょうどいい温度感だ。
ここは推し活グッズの専門店。100円程度の安価なものから、割高感のある老舗メーカーのしっかりした商品まで幅広く取り揃えている。なによりカラーバリエーションが豊富なのがオタクにとってありがたい。グッズを推しの色と合わせるのがオタクにとって最大にして最難関のミッションと言える。メインキャラなら原色系のカラーで合わせられるが、三列目の端まで行くと微妙なニュアンスカラーを割り当てられていて、探すのが大変で…。
「いつもありがとうございます」
パーティーグッズをカゴに詰めてレジに行くと、店員さんに声をかけられた。よく来るから覚えてくれている。
「今夜は輝羅丸さんの誕生日でしたよね」
「え、覚えてらっしゃるんですか?」
うそ、買うもの見ただけでキャラがわかって、しかも誕生日までわかるなんて。店員の鑑すぎる。
「楽しんでくださいね。あ、でもちゃんと推せる範囲で、ね」
「ありがとうございます」
推し活をわかってくれる人はまだ多くない。こんな会話ができるのも、このショップのありがたいところだ。思わず顔がほころんだ。
部屋に戻り、飾り付けを行う。今日は祭壇だけでなく、部屋全体をキラ様の色に染めるんだ。
夜11時58分、祭壇の中央には御神体。そこに好物のマロンショートを捧げる。ゆっくりと、祈りとともに歌いはじめる。
「ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデーディア、輝羅丸〜、ハッピバースデートゥーユー…」
ボワン…!
変な効果音とともに祭壇から煙が立ち上る。へ、なになに? なにが起きたの?
「うん、悪くないな。オレ様の誕生日に相応しい大きさだ。合格だ」
そこにはアクスタサイズの神雅峰輝羅丸様が凛々しい立ち姿で顕現されていた。
続く?
「ねえねえ『さかさまぼこ』って知ってる?」
「さかさまぼこ? 何それ?」
「逆さまの鉾」
「ああ、読んで字のごとくだった。それだけじゃわかんねぇよ。どんな形してるの?」
「あの、ちょうど『笹かま』と同じような形で」
「じゃあ笹かまぼこじゃねぇか」
「で、逆さまになってるの」
「なに? 笹かまで形が逆さまってあんまり変わらないけどな、尖ってる部分が、上か下か…」
「あ、形じゃなくて『さ』と『か』の位置が」
「あ名前の話? どおりで似てるなと思った…今の説明だと『かささまぼこ』の可能性もあるよ」
「そのユーモアは笑えないな」
「誰が言ってんだよ、そもそもさっき形の話してただろ」
「で、食べるとこれが全然おいしくない」
「あ、味も逆さまだからおいしくないんだ」
「日本一おいしくない」
「あ、笹かまぼこが日本一おいしい食べ物だと思ってる人の感想だ」
「で、笹かまでいう尖った部分が鉄製の刃になっていて、それに長い棒が付いてるんだけど」
「冗談でも武器の鉾を口に入れて味わうなよ。良い子がマネしたらどう責任取るつもりだ」
「持ち手の方に刃が付いてるから『逆さま鉾』っていうんだ」
「本当に読んで字のごとくだったな。そんなもの危なくて使えないだろ」
「だから『逆さま鉾』っていうのは『順序を逆さまにすると、上手くいかなかったり、命を危険に晒すことにもなる』っていう意味のことわざなんだ」
「新しいことわざ作るな! もういいよ」
これはやばい。もう真夜中なのに。ずっと見ちゃう。終わらない。眠れないほど面白い!
深夜のリビングで、私はノートPCを開けていた。サブスクで配信されてるタイのドラマ、次の展開が気になってどんどん見ちゃう。1話終わったらノータイムで次のが始まるから止められない。
ルームシェアしてるナオは自分の部屋に入ってたぶんもう寝ている。さすがに夜中まで音出してたら迷惑だよね。部屋にテレビはなくて、ナオはあんまりドラマに興味ないみたい。どっちかっていうとバラエティ? お笑いが好きって言ってたかな。
あと1話、と思ってマグカップに口を付けたら、コーヒーが冷めてる。その冷たさでふと我に帰ると空気がひんやりしているのに気づいた。やだ、寒いかも。
「まだ起きてたの?」
声に驚いて振り返ると部屋の入り口にナオがいた。
「ナオ!? なんで?」
隠し事がバレた子どものような反応をしてしまう。
「この部屋寒くないか?」
私の態度も気にせずナオはエアコンを調整してタオルケットを掛けてくれた。
「あ、ありがと…。怒らないの?」
「何に?」
何にって…、何にだろう。
「夜中まで起きてて…、隠れて配信ドラマ見てて…」
「お互い大人なんだから、そんなこと気にしないよ。一緒に暮らしている分、一人の時間は大切にしないと」
そっか。そこはルームシェアを始めたときに話し合ったルールだ。
「見られたくない趣味だってあるだろうし。お互いね」
そうだよね。ナオにもそういう趣味があるのかな。
「あー、でも見られちゃったなー。タイの配信ドラマ見てるの」
「そんなに変な趣味かな?」
「変じゃない?」
ナオが顔を背けて言葉に詰まる。やっぱり変だと思ってるじゃ…。
「実は、私も、部屋で同じドラマ見てた…」
ナオが照れくさそうな顔を隠している。
「えーうそ! だったら隠すことなかったじゃん! 一緒に見ようよ!」
「いやいや、こういうドラマは一人で見るもんかなって」
逃げようとするナオを放さない。
「もう遅いです〜。ねえ、キエトとアスニ、どっち派? せーので言おう!」
「キエト派」
「アスニ派」
「そこは違うんだ〜、あははっ」
またひとつ、ナオと同じところと違うところが見つかった。二人だけの眠れない夜は続いていく。
キヨコはよく夢を見た。とても鮮明で現実と区別がつかなくなることがよくあった。そんな時は決まって『ゆめ診断師』を探した。『ゆめ診断師』は自分がそう呼んでいるだけで、実際にそんな職業があると聞いたことはない。
『ゆめ診断師』はキヨコが探せば必ず現れて、キヨコが「これは夢ですか?」と聞けば必ず「ええ、そうですよ」と答える。するとすぐにキヨコは眠りから覚めるのだった。
何度も経験したから、これはキヨコの夢の中で起こることで、そもそも「これは夢かしら?」と思うことも、夢の中でしか起こらないと理解していた。『ゆめ診断師』は夢だからこそまかり通る不思議なイベントなのだと思っていた。だから日常生活で誰かに話したことはないし、目が覚めているときに意識することもなかった。
その日、キヨコはアルバイトをしていた。すると自分から少し離れたところに『ゆめ診断師』がいるのを見つけたのだ。
キヨコは目を疑った。なぜなら彼はキヨコが生み出した空想の産物で、現実世界にいるはずがないからだ。顔も風貌も着ているものも、すべてが夢で見る『ゆめ診断師』と同じだった。
こんなことは初めてだ。あれが『ゆめ診断師』だとしたら、いま私は夢の中にいるということなのか? 自分が夢だと自覚していない時に、目覚めて現実に戻りたいと思っていない時に、向こうから『ゆめ診断師』が現れることは一度もなかった。それに私はいまが現実だと自覚している。
動揺は次第に恐怖に変わっていく。イマジナリーの存在なんか作るべきじゃなかった。いや好きで作ったわけでもない。
だんだんと、これが夢ならと思えてきた。そうか、いま、私はこれが夢か現実か分からなくなってきている。いまなら、聞いてもいいんじゃないか? あの人に「これは夢ですか?」って、いつものように聞いてみたら、いつもみたいに夢から覚めて…。
でも、もしそうじゃなかったら。この際、変な人だと思われるのは仕方ない。でも、あの人が現実にいることが確定してしまったら、私はこの世界で生きていける気がしない。もうこれが夢じゃないなんて信じられない。
ふと、バイト仲間のユミちゃんが彼に近づいていった。そしてこう告げたのだ。
「これは夢ですか?」
その瞬間、目の前が真っ白になって目が覚めた。