私の部屋の片隅には、私だけが祈りを捧げる小さなパワースポットがある。
カラーボックスを三段積み上げてそのそれぞれをグッズで飾る。一段目はショップで買える市販品。二段目はコラボカフェで買い漁った限定品。三段目はイベントやファンミでしか手に入らない非売品。そして頂上には見開きファイルを三面鏡に見立てた祈りの空間。
もはや「祭壇」という名称で市民権を得ているその構造物は、180度すべてに推しの姿を配置した。
『イケメン執事が多すぎる』のキャラクター「神雅峰輝羅丸(こうがみねきらまる)」に魅了されて3年と4ヶ月。銀髪を後ろで束ねた長身メガネ、執事なのに命令口調のオレ様キャラ。私の人生はキラ様なしでは考えられないほどになっている。
アクリルスタンドを御神体として安置し、毎朝祭壇に祈りを捧げる。それが限界OLの心の支えになっている。
御神体はアクスタケースに入れて肌身離さず持ち運ぶ。御守りのようなものだ。
さあ御神体を携えて、今日向かうのは推し活グッズショップ! なんせ明日はキラ様の誕生日♡ 本人不在の生誕祭を盛大に催さなければならない! 一日をキラ様に捧げるためにもちろん有休を取ってある。
「いらっしゃいませ」
お店に入ると、メガネに長髪の男性店員さんが落ち着いた声で挨拶してくれる。二次元キャラを推す人にとってちょうどいい温度感だ。
ここは推し活グッズの専門店。100円程度の安価なものから、割高感のある老舗メーカーのしっかりした商品まで幅広く取り揃えている。なによりカラーバリエーションが豊富なのがオタクにとってありがたい。グッズを推しの色と合わせるのがオタクにとって最大にして最難関のミッションと言える。メインキャラなら原色系のカラーで合わせられるが、三列目の端まで行くと微妙なニュアンスカラーを割り当てられていて、探すのが大変で…。
「いつもありがとうございます」
パーティーグッズをカゴに詰めてレジに行くと、店員さんに声をかけられた。よく来るから覚えてくれている。
「今夜は輝羅丸さんの誕生日でしたよね」
「え、覚えてらっしゃるんですか?」
うそ、買うもの見ただけでキャラがわかって、しかも誕生日までわかるなんて。店員の鑑すぎる。
「楽しんでくださいね。あ、でもちゃんと推せる範囲で、ね」
「ありがとうございます」
推し活をわかってくれる人はまだ多くない。こんな会話ができるのも、このショップのありがたいところだ。思わず顔がほころんだ。
部屋に戻り、飾り付けを行う。今日は祭壇だけでなく、部屋全体をキラ様の色に染めるんだ。
夜11時58分、祭壇の中央には御神体。そこに好物のマロンショートを捧げる。ゆっくりと、祈りとともに歌いはじめる。
「ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデーディア、輝羅丸〜、ハッピバースデートゥーユー…」
ボワン…!
変な効果音とともに祭壇から煙が立ち上る。へ、なになに? なにが起きたの?
「うん、悪くないな。オレ様の誕生日に相応しい大きさだ。合格だ」
そこにはアクスタサイズの神雅峰輝羅丸様が凛々しい立ち姿で顕現されていた。
続く?
「ねえねえ『さかさまぼこ』って知ってる?」
「さかさまぼこ? 何それ?」
「逆さまの鉾」
「ああ、読んで字のごとくだった。それだけじゃわかんねぇよ。どんな形してるの?」
「あの、ちょうど『笹かま』と同じような形で」
「じゃあ笹かまぼこじゃねぇか」
「で、逆さまになってるの」
「なに? 笹かまで形が逆さまってあんまり変わらないけどな、尖ってる部分が、上か下か…」
「あ、形じゃなくて『さ』と『か』の位置が」
「あ名前の話? どおりで似てるなと思った…今の説明だと『かささまぼこ』の可能性もあるよ」
「そのユーモアは笑えないな」
「誰が言ってんだよ、そもそもさっき形の話してただろ」
「で、食べるとこれが全然おいしくない」
「あ、味も逆さまだからおいしくないんだ」
「日本一おいしくない」
「あ、笹かまぼこが日本一おいしい食べ物だと思ってる人の感想だ」
「で、笹かまでいう尖った部分が鉄製の刃になっていて、それに長い棒が付いてるんだけど」
「冗談でも武器の鉾を口に入れて味わうなよ。良い子がマネしたらどう責任取るつもりだ」
「持ち手の方に刃が付いてるから『逆さま鉾』っていうんだ」
「本当に読んで字のごとくだったな。そんなもの危なくて使えないだろ」
「だから『逆さま鉾』っていうのは『順序を逆さまにすると、上手くいかなかったり、命を危険に晒すことにもなる』っていう意味のことわざなんだ」
「新しいことわざ作るな! もういいよ」
これはやばい。もう真夜中なのに。ずっと見ちゃう。終わらない。眠れないほど面白い!
深夜のリビングで、私はノートPCを開けていた。サブスクで配信されてるタイのドラマ、次の展開が気になってどんどん見ちゃう。1話終わったらノータイムで次のが始まるから止められない。
ルームシェアしてるナオは自分の部屋に入ってたぶんもう寝ている。さすがに夜中まで音出してたら迷惑だよね。部屋にテレビはなくて、ナオはあんまりドラマに興味ないみたい。どっちかっていうとバラエティ? お笑いが好きって言ってたかな。
あと1話、と思ってマグカップに口を付けたら、コーヒーが冷めてる。その冷たさでふと我に帰ると空気がひんやりしているのに気づいた。やだ、寒いかも。
「まだ起きてたの?」
声に驚いて振り返ると部屋の入り口にナオがいた。
「ナオ!? なんで?」
隠し事がバレた子どものような反応をしてしまう。
「この部屋寒くないか?」
私の態度も気にせずナオはエアコンを調整してタオルケットを掛けてくれた。
「あ、ありがと…。怒らないの?」
「何に?」
何にって…、何にだろう。
「夜中まで起きてて…、隠れて配信ドラマ見てて…」
「お互い大人なんだから、そんなこと気にしないよ。一緒に暮らしている分、一人の時間は大切にしないと」
そっか。そこはルームシェアを始めたときに話し合ったルールだ。
「見られたくない趣味だってあるだろうし。お互いね」
そうだよね。ナオにもそういう趣味があるのかな。
「あー、でも見られちゃったなー。タイの配信ドラマ見てるの」
「そんなに変な趣味かな?」
「変じゃない?」
ナオが顔を背けて言葉に詰まる。やっぱり変だと思ってるじゃ…。
「実は、私も、部屋で同じドラマ見てた…」
ナオが照れくさそうな顔を隠している。
「えーうそ! だったら隠すことなかったじゃん! 一緒に見ようよ!」
「いやいや、こういうドラマは一人で見るもんかなって」
逃げようとするナオを放さない。
「もう遅いです〜。ねえ、キエトとアスニ、どっち派? せーので言おう!」
「キエト派」
「アスニ派」
「そこは違うんだ〜、あははっ」
またひとつ、ナオと同じところと違うところが見つかった。二人だけの眠れない夜は続いていく。
キヨコはよく夢を見た。とても鮮明で現実と区別がつかなくなることがよくあった。そんな時は決まって『ゆめ診断師』を探した。『ゆめ診断師』は自分がそう呼んでいるだけで、実際にそんな職業があると聞いたことはない。
『ゆめ診断師』はキヨコが探せば必ず現れて、キヨコが「これは夢ですか?」と聞けば必ず「ええ、そうですよ」と答える。するとすぐにキヨコは眠りから覚めるのだった。
何度も経験したから、これはキヨコの夢の中で起こることで、そもそも「これは夢かしら?」と思うことも、夢の中でしか起こらないと理解していた。『ゆめ診断師』は夢だからこそまかり通る不思議なイベントなのだと思っていた。だから日常生活で誰かに話したことはないし、目が覚めているときに意識することもなかった。
その日、キヨコはアルバイトをしていた。すると自分から少し離れたところに『ゆめ診断師』がいるのを見つけたのだ。
キヨコは目を疑った。なぜなら彼はキヨコが生み出した空想の産物で、現実世界にいるはずがないからだ。顔も風貌も着ているものも、すべてが夢で見る『ゆめ診断師』と同じだった。
こんなことは初めてだ。あれが『ゆめ診断師』だとしたら、いま私は夢の中にいるということなのか? 自分が夢だと自覚していない時に、目覚めて現実に戻りたいと思っていない時に、向こうから『ゆめ診断師』が現れることは一度もなかった。それに私はいまが現実だと自覚している。
動揺は次第に恐怖に変わっていく。イマジナリーの存在なんか作るべきじゃなかった。いや好きで作ったわけでもない。
だんだんと、これが夢ならと思えてきた。そうか、いま、私はこれが夢か現実か分からなくなってきている。いまなら、聞いてもいいんじゃないか? あの人に「これは夢ですか?」って、いつものように聞いてみたら、いつもみたいに夢から覚めて…。
でも、もしそうじゃなかったら。この際、変な人だと思われるのは仕方ない。でも、あの人が現実にいることが確定してしまったら、私はこの世界で生きていける気がしない。もうこれが夢じゃないなんて信じられない。
ふと、バイト仲間のユミちゃんが彼に近づいていった。そしてこう告げたのだ。
「これは夢ですか?」
その瞬間、目の前が真っ白になって目が覚めた。
「なんか、最近さよならって言ってない気がする」
「何を急に」
「ねえ、さよならってどういう時に使う?」
「え、どっかで人と会って、帰るときとか、あとはお店から出るときとか?」
「なんかよそよそしくない?」
「ん?」
「なんかフレンドリーじゃないっていうか、普段そんな言わないよな」
「んー、言われてみれば」
「ビジネス、会社だったらさ、『失礼します…』じゃない?」
「あー確かに、会社でも得意先と商談したときでも『失礼します』って言うな。ホスト側は『ありがとうございました』だな」
「なんなら次の予定があったら『また!』とか『また今度』とかの方が気持ちいい」
「ああ次を想定してる感じはいいね」
「子どもの頃は毎日『さようなら』って言わされてたよな」
「帰りのホームルームな、あったな」
「みんなでいっせいに『さよーならっ!』て、あれ誰に向かって言ってたんだよな」
「儀式すぎたな」
「形骸化してるよな」
「あーでも。一個だけ気づいちゃった」
「なに?」
「完全に『さよなら』使ってるところあったわ」
「うそ〜、やめてよー、どこどこ?」
「サヨナラホームラン」
「わー! 言ってる! 毎回言ってる! あいつら子どものまんまだ。何も変わってない。野球小僧がそのまま大人になってるから。だからまだ『サヨナラホームラン』なんて言っちゃうんだ」
「大谷なんか野球少年のまんまだなんていつも言われてるもんね」
「それ変えよう。オレたちでそれ変えちゃおう」
「えー、サヨナラホームランを放ちました高橋選手です! 見事なサヨナラホームランでした!」
「あ、どうも。あのそのー、サヨナラじゃないんです」
「え? は?」
「サヨナラって約束なしのお別れなんで」
「急に山口百恵ですか?」
「せっかく来ていただいたお客さんにさよならするのは失礼なんで」
「では、なにホームランですか?」
「明日も来ていただきたいんで『また明日ホームラン』でお願いしまーす!」
「これでいいのかな」
「完璧でしょ」