太陽の強烈な日差しから隠れるように過ごしていた時期が嘘のように、朝の空気はひんやりとして心地よかった。朝食のバターブレッドとともに休日を噛みしめる。
「お散歩行かない?」
珍しくカナデから提案があった。散歩か、いいじゃないか。私は二つ返事で了承した。
「気持ちいいな、久しぶりの感覚だよ」
「でしょ〜、ふふ。歩くのって頭の整理にちょうどいいんだよ」
通勤のために歩くときは、仕事に行くつもりで気怠さばかりが頭を占めている。目的なくただ歩くことなんか久しくしていなかった気がする。
「休みの日にちょっと出かけるのって散歩だったの?」
「あ、そうだよ。買い物じゃないときはお散歩。平日もひとりの時はたまに行くよ」
カナデは在宅ワークを存分に楽しんでいる。クリエイターにとってアイデアを考える時間は勤務に当たるのか。拡大解釈のような気もするが、会社が許しているならOKなのだろう。
休日の午前中、町は静かだ。そう思っていたけれど、ランニングをしている人や犬の散歩をする人など、すれ違う人は多いと気づいた。いつもと違う行動をすると、町は違う顔を見せてくる。営業で知らない町に行ったときのように。
しばらく歩いていると、隣を歩くカナデが話しかけてこないことに気づいた。あちこちに顔を向けながら、自分の中で思索を巡らせているのだろうか。一緒に歩いているのにまったく別のことを考えている。そのことが、どこかおかしく、どこか心地よい。
なんとなく、歩くことの意味に気づいてゆく。メディアに触れることなく、自分の目で耳で身体で触れたものだけを感じる時間。歩く速さで、自分という器のペースで思考することは、自分の内側に入っているものだけを取り出せるということだ。等身大の思考とでも言おうか。
きっとこのままカナデに話しかければ、二人の等身大が混ざり合う。二人だけの思考が生まれる。
少し前を歩くカナデについて行ったら、公園にたどり着いていた。
もし、いまカナデが考えていることが、自分にわかったとしたら、それはとても尊く、奇跡のような結び付きになるかもしれない。
「ねえ、カナデ」
「ん、なあに?」
「いま何考えてた?」
「え?恥ずかしいから言わない」
「当てようか?」
「えー?じゃあせーので言う?」
「いいよ」
二人は立ち止まって声を合わせた。
「せーの」
「お昼なに食べよう」
「お昼どこに行こう」
大人二人が公園の隅でゲラゲラ笑う。コイツとなら上手くやれそうだ。
昼から降り始めた雨が、涼しい風を運んできた。うっすら開けた窓から、湿った雨の匂いとともにキンモクセイの香りが鼻を差した。
ああ、この匂いだ。雨に混じるキンモクセイの香りは、思い出したくもないあの記憶と結びついている。毎年この時期になると嫌でも思い出してしまうのだ。
こんなことなら、あんな日にデートなんかしなきゃよかった。
———
あの日も雨が降っていた。彼との待ち合わせは、駅前のフラワーモニュメントの前だった。休日の朝、待ち合わせらしき人たちは他にも何人もいて、それぞれ傘を差しながら携帯をいじっていた。
少し待っていると、私は彼がいつも着ているブルーのジャケットを認めて大きく手を振った。なかなか気づいてもらえないから、名前を呼びながら近寄っていくと、全然知らない人だった。
一瞬目が合った気がしたけど、私は手を振りながらそのまま素通りした。思い出したくもない。
キンモクセイは香りだけを運んできた。
彼はその10分後にやってきた。デートスポットまでの道を歩きながら、彼は新しく買ったイエローのシャツを自慢してくれた。私は「だから今日、雰囲気違うんだね」とだけ言っておいた。
キンモクセイは香りだけを運んできた。
一緒に入ったオシャレなカフェでのまったりとした時間。なかなか予約の取れない人気店で、オリジナルのパンケーキが人気だった。彼の話を聞きながら、ぼーっと抹茶ラテの入ったプラスチックカップをストローでクルクルさせていたら、勢いがついて彼の方にカップを倒してしまった。なみなみ入った抹茶ラテは彼のイエローのシャツをまっちゃに染めた。
「ホントにおっちょこちょいだな」
と彼は笑ってくれたけど、私は本当に申し訳ないと思いながらも、内心ではいいから早くそのシャツ脱いでくれよ、と叫んでいた。
そこでもキンモクセイは香りだけを運んできた。
あの人とは、程なくして別れた。二度と思い出したくない、顔から火が出るほど恥ずかしい記憶…。
———
メッセージが入る。
「もう家出た?仕事終わらなくて、5分ぐらい遅れます」
いつものことじゃない。私は笑いながら返事をする。
「了解!」
そのメッセージを合図に家を出た。雨とキンモクセイの混じった香りは、より一層強く、全身を包む。
でも、そんな嫌な思い出も今日でサヨナラ。新しい楽しい思い出が、この匂いとともに刻まれるんだから。
玄関のレンガ階段を軽快に下りる。最後の一段を踏むやいなや、オシャレして履いたブーツがスコーン!
こんな日にデートなんかしなきゃよかった。
二軒目に連れて来られたお店は地下にあった。カウンターの後ろのお酒が並べられた棚が裏側から光っているような、そんな感じのバーだ。
店内は薄暗く、食事をおいしく食べるお店ではなさそうだ。私はこの店に連れて来られた人なら誰もが発する、月並みでありきたりなセリフを吐いた。
「なんか雰囲気のあるお店ですね」
連れてきた人はその凡庸な文句をたいそう気に入ったらしく、ニンマリとした笑みを浮かべた。
「マスター、2人。カウンターは?あ、空いてない。しょうがないな」
カウンターは2人並べる席が空いてないようで、男は渋々ボックス席に座った。こういうお店はカウンターに座ってこそなんだろうか。
間接照明のやわらかい光がいくつもゆらめいている。ぽつんと座ったテーブルで、私は落語の「死神」の場面を思い浮かべていた。
ろうそくがたくさん並んでいる場所って、このぐらいの明るさなのかな。
「ねえねえ、これから進めていく僕のプロジェクト、どのぐらいの規模だと思う?」
男は私の対面ではなく、上家側に座った。
「え、ちょっとわかんないです」
「50億だよ。50億!48億6,500万」
ほな50億とちゃうやんけ!…。はさすがに言いがかりか。
なんでそんな細かい端数まで覚えてんねん!そこらへん、為替でなんぼでも変動するやろ!…ぐらいかな。
「どう?ちょっとは僕に興味沸いた?」
んー48億6,500万はちょっとだけ良かったけど。ちょっと興味沸いたけど。いやそんなこと口に出すなよ!そもそもキモいねん。
「あ、ここのパテ、絶品だから!絶対食べて!」
ここではウイスキーをオススメしろよ!食いもん頼む店ちゃうやろ!お前がキープしてる極上のウイスキー飲まして来いよ!
「あ、この後ホテル予約してあるんだけど、どうかな?」
いやどのタイミングで行ける思たん?もともと予約しちゃってるから誘わなきゃ損だし、…で誘うなよ!
「ちなみにアパホテル」
絶っ対 いま そこじゃないよね!アパはないよね!事前にアパホテルって言われてて、やったーじゃあ行く〜、はないよね!ポイントいくら貯まってるんか知らんけど。
———
「っていうエピソードなんだけど。間接照明が好きな男ってどう思う?」
「んー、そんな肘とか膝とか光ってるやつ見たことないけどな」
「いや関節が照明のやつの話してないわ」
「あとお前がツッコミのときだけ関西弁になるのもキモいよ?」
「それは言わんといてー、もういいよ」
「おーい、まだ決まらないの?」
会社帰りに合流した僕たちは、駅前のスーパーで買い出しをしていた。お酒とつまみはだいたいカゴに詰めたが、まだ一人、悩んでいるやつがいた。
カズミはさつまチップスの棚に鋭い眼差しを向けている。
「ねえ、うすしお味とやきみそ味、どっちがいいかな?」
やきみそ?焼き味噌?!あまり聞かないが食べたくなる。臼花屋もチャレンジングな商品を出してくる。
「あ、明太マヨ味もあるよ、決められないな〜」
「と、とりあえず焼き味噌は入れといて」
カズミの意識がそれる前に確保しておこう。もう食べたくて仕方がない。こっちはしばらくかかりそうだから放っておいて、もう一人は…。
「あ、いたいた、会計まだ?ちょっと先に外出てていい?油売ってくるわ」
言いながらモッチは酢昆布をカゴに入れた。おつまみのチョイス小5の駄菓子屋か。なんだこいつら。その割には「油売ってくる」とか古風な言い回し使いやがって。ヤニ入れてくるだけだろ。
「今夜のお供はこれに決定!」
カズミはさつまチップスのやきみそ味と明太マヨ味をカゴに入れる。
「はい、もういいな、じゃあレジ行くぞ」
「ちょ、ちょ、ちょ!こっちだよ、ヨッちゃんも来て!」
え?まだあんの?
「最後はアイスでしょ!秋はマロンの季節デス!限定味をチェックなのデス!」
またこいつの鋭い眼差しに付き合わなきゃいけないのかよ。
「ちなみにモッチからはすでにオーダーいただいてマス!」
あいつ、そこまで見越して先に出たな。
営業成績は棒グラフによって高く高く積み上げられていく。私はこの棒グラフを虚しい気持ちで眺めていた。
同じ社員と競争しているように見せられて、毎月の結果に一喜一憂して、果たして給与明細の数字はここ5年間で何千円増えたというのか。棒状に積み上げられたものはダルマ落としの要領で崩すことができる。このオフィスが入っているビルもなかなか細長い棒である。どこかにいい槌はないだろうか。ウチの建設機械の技術ならそれくらい作れるんじゃないか。
ああいかんいかん。現実逃避破壊衝動終末思想がすぎる。私が疲れている訳ではない。この国のサラリーマンは一様に朝から疲れすぎている。よし、すべての疲労を国に転嫁できたところで気分がリセットした。
ゲームを途中でやめて最初からやり直すというこの比喩を肯定的に使うようになったのはいつの頃からか。どんな事象も否定から肯定に多数派が切り替わる瞬間はあるもので、市民権を得るまでにどんな苦労があってもやり続けることに意義はあるものだ。かつては不良のカルチャーと呼ばれた文化のどれだけが、今の日本でメインカルチャーになっているだろうか。
英文の日本語訳のように思考を続けるのはやめよう。水平思考をいくら続けても、営業成績が垂直方向に高く積み上がることはない。
「それではみなさん、今日も一日、元気にがんばりましょう!よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
朝礼を全く聞いていなかった。聞いても聞かなくても同じ朝礼なら毎朝全員の時間を拘束してやる意味があるのか。しかも始業時間前だぞ。この無為な朝礼こそが朝から疲れている原因の一つに違いない。
「タケヤマ、ちょっといいか」
部長から話しかけられてビクリとなる。
「はい。なんでしょう」
小さな会議室に促された。
「タケヤマ、いつも良くやってくれてありがとう。営業成績は毎月独走でトップだな」
あの縦軸の棒グラフを見て“独走”を連想するとは、部長はなかなか想像力が豊かなようだ。
「君に昇進の話がある。もちろん簡単な昇進試験もあるんだが、君なら心配ないだろう」
そうだ。営業成績を積み上げた先には昇進がある。さらなる高みへという訳だ。さすがに会社命令に逆らったら処分されるだろうし、昇進試験なんか目をつぶっていてもできるようなものをわざと落ちるのもすぐにバレそうだ。いっそ上にあがってこのくだらない会社の文化をぶち壊してやろうか。
そうか、その手があったか。すべての文化ははじめは否定される。私が変えればいいのか。やってやる、私はやってやるぞ——
「それではこれより、新たにCEOに就任されましたタケヤマ様より、ご挨拶を賜ります」
「みなさま、お集まりいただきありがとうございます。堅苦しい挨拶は抜きにして、こちらをご覧ください」
会場の大型スクリーンに巨大な機械が映し出される。キャタピラの上にドデカい鉄槌が水平に取り付けられている。会場から嘆声とざわめきが起きる。
「こちらが我が社の技術の粋を結集して作った次世代建機『超高速回転鉄槌〜ダルマ川落としPG〜」くんです」
ざわめきが激しくなる。
「この機械は高速に回転することで最大限のパワーとスピードを手に入れて、ビルの1階部分を安全にぶち抜くことが可能になりました。これにより、建ててしまったビルのレイアウトが気に入らなかった場合、2階を1階にすることができます。すべての階をぶち抜けば、カセット形式で自由に上下を入れ替えることも可能です!」
映像の中のダルマ川落としPGが高速で回転し始める。
「早速、我が社の新社屋から、1階をぶち抜いていきましょう!あはははは!」
ダルマ川落としPGは、社屋に向かってまっしぐらに進んで行った——