三件の営業を終えた頃には、もう空が赤くなっていた。それでも会社の終業時間までだいぶある。忙しなく移動した一日だったが、速やかに片付けば社内にいるより早く帰れるというのが営業のメリットだ。直帰という概念を作った先人に感謝したい。
念のため会社に連絡をして許可を取る。ただここは普段は来ない郊外の町。電車で戻る頃にはいい時間になっているか。
さっき軽食を摂った喫茶店の横を通ってその思い出に浸りつつ、帰路に着いた。
部屋に入ると同居人はすでに帰宅していた。私が営業で帰りの時間が読めなかったため、夕食当番は同居人がやることになっていた。
ただいま、と声を掛けると、キッチンから包丁を持ったまま駆け寄ってくる。
「おかえり〜!ねえ聞いて!聞いて!」
そのまま抱きついて来そうな勢いだったのを両手で制す。
「危ない!包丁!危ないから!」
相手は学校であったことを聞いてほしい子供のように無邪気に両腕をパタパタしている。
包丁、包丁。
とりあえずまな板の上に包丁を安置させて、話を聞く体制を整えた。キッチンの状況からして今夜はカツオのカルパッチョのようだ。割と手の込んだものを作りたがる。
「この前、コンペに出すデザインの話したじゃん、在宅のときに作ったやつ」
「あの失敗したって話してたやつか」
描き直しを食らったから夕飯を作れないって言われた日だ。よく覚えている。
「そう!それの結果が今日連絡来て。私のデザインが採用されたの!すごいでしょ!」
「そうか、やったね。おめでとう」
内情を知っているからか、自分のことのように嬉しい。
「しかもその案が、私が暴走して作って上司に怒られたヤツだったの!」
二人一緒になって笑う。
「上司がその案もちゃんと送ってくれてて。あの上司いいトコあんのよ」
「あれ、確かコルトレーンを聴きながら描いたデザインだろ?」
音楽を聴かなきゃ集中できないと、私のレコードを勝手に物色して引き当てたらしい。
「そうなの!しかも先方がね、『このデザインからはJAZZを感じる。このデザインにはマイルス・デイビスの血が流れている』って!」
二人は声を合わせた。
「惜しい〜!」
「じゃあ、明日の放課後、ここで待ち合わせね」
またあの日の夢を見た。最近よく見る夢だ。いや、このフレーズだけを思い出している。これは現実にあったことなのか。それさえもわからなくなっていた。
あの日の明日。何をしたんだっけ。その友達とは今も友達なんだっけ。
こんな記憶のために、子供の頃に住んでいた土地を訪れるのは、おかしいことだろうか。それでもここに来てしまったのは、私が今確かめなければいけないと思ったからなんだろう。
夢で聞く声からして、おそらく中学生。であれば行くべきは中学校。私は通っていた中学校から家までの道のりを歩くことにした。
毎日歩いていた景色なのに、すべての建物の背が少しずつ低いように感じられる。自分の目線の高さが上がっているのだ。少しの目線でこんなにも世界が変わるのか。身長が2メートルの人とは、生きている世界が違うんだろうな。
昔の生家にたどり着く直前、四つ角のところで記憶が舞い戻る。ここだ。あの日待ち合わせをしたのはこの交差点だ。
相手は友達の女の子。思い出してみれば、なんで今まで忘れていたんだろうという気持ちになる。そう、私は毎日のようにここであの子と待ち合わせをしていた。
たった一度の強い思い出ではなくて。習慣的な当たり前の約束だった。
じゃあ、あの夢は、私に何を知らせていたんだろう。人の記憶が脆弱で、大切なことを簡単に忘れるということ?日々の忙しさに追いかけられると、過去が消えてしまうということ?
あの子と毎日遊んでいたのは、中学2年生ぐらいのとき。行き先も決めず、とりあえず商店街まで歩いていって、本屋さんとかお菓子屋さんとか喫茶店とか。
ああそっか。「覚えてる」っていうことか。
私はこの記憶を覚えていた。思い出せるんだ。どんなに日々に押しつぶされそうになっても、覚えてるんだ。
なんでもないあの日々を、大切だったあの日々を。あの夢は、大丈夫だって知らせてたんだ。何も忘れてない。あなたの人生はあの日からずっと続いていると。
一人暮らしを始めるとき、なんで誰も教えてくれなかったんだろう。カーテンの買い方を。なんで誰も教えてくれなかったんだろう。カーテンには、幅だけでなく、丈があるということを。
まぶしい。一週間の終わり、いつまでも寝ていたいのに、太陽が寝かせてくれない。
平日は日が出る前から起き出しているから、全然気にしないのに、週末に寝かせてくれない。
なんで誰も教えてくれなかったんだろう。目分量を信用してはいけないということを。窓の幅しか測ってなかったのに、なんで必要な丈を聞かれたときに、ちゃんと調べてきた振りをして適当に答えてしまったんだろう。
なんで誰も教えてくれなかったんだろう。カーテンには窓の上の方で巻かれているロールカーテンがあるということを。あれなら丈を知らなくてもクルクルの長さだけで下まで届くのに。
なんで誰も教えてくれなかったんだろう。コロナ明けてもまだリモート会議があるということを。zoomをつなぐたびに青い水玉の寸足らずのカーテンが映り込んでしまうなんて。
買い直すのももったいない。布を継ぎ足すのも恥ずかしい。世の中って生きづらいなぁ。
そんなことを頭に巡らせながらまどろんでいたら、いつの間にか布団をかぶって二度寝していた。
あー眩しい。午前中はこの日差しとの戦いかー。会社に来るなり、ガラス張りのオフィスに悪態をつく。二日酔いにこの光度は堪える。なまじ管理職になってめっちゃ明るい壁際の席を用意されてしまった。
デザインの会社なんだからセンスのいいオフィスに入らなくちゃな!という社長の意向で数年前に移転したが、光の反射でPC画面が見えないだの、西陽で背中が焼かれるだのとクレームが相次ぎ、現役のデザイナーは直射日光の当たらない席に一斉避難している。管理職は逃げられなかった。
太陽を避けようと俯いて頭痛と格闘していると、目の前にデザイナーのカシマが立っていた。
「ナカガワさん、ちょっといいですか?」
「ああ、今日は早いな」
「まあ、最近ゆっくり来てたんで」
カシマは若手のデザイナーでフレックスタイムをフル活用して働く柔軟な性格だ。お昼ぐらいに出社することも多いが、月の労働時間はキッチリまとめてくる。
「あのー、転職サイトの案件なんですけど、メインビジュアルのことで聞きたいことがあって」
仕事に関しては真剣。クライアントの要望に応えることを最優先に考えている。
「このー『女性が目に涙を溜めている』ってところなんですけど、これ何の涙ですかね」
ん?ほう、はあ。
「いや、理由知りたいじゃないですか。打ち合わせのとき何か聞いてません?」
「いやー確かに。いや、聞いてないな、すまない」
そこわかんなきゃダメかな。うーんそうだよな、表情も変わってくるか。自分がデザインするんだもんな。
「そうっすか。ナカガワさん、なんだと思います?」
だよな。そりゃ聞かれるよな。打ち合わせに参加したの私だもんな。
「例えば、悔し涙じゃないかな。今の会社でつらいことがあって、転職して見返してやる!とか」
「でもクライアントは転職をプラスのものとしてアピールしたいんですよね。キャリアアップとか自己実現とか」
ホントに真面目だな。この感情を読み違えたらいいデザインが描けないと確信している。ついこの間も彼女の案について修正を依頼したら、意図を理解して的確に直したものを送ってきた。それだけじゃなく、自分でブラッシュアップした私の指摘とまったく違う変更案も同時に出てきたことがあった。自分のデザインを主張する気の強さも持っている。
「じゃあ、転職が上手くいかなくても諦めないっていう強い意志」
「それも考えました。負けないぞ!っていうのもありなんですけど、転職は簡単じゃないってわざわざ広告にメッセージとして入れるかなぁ」
言われてみれば。だんだん私も向き合わなきゃいけない気がしてきた。
「ナカガワさん、1番にお電話です。ディープランニング様からです」
「ああ、はい。すまん、電話だ。今の感じでラフ案をいくつか作っておいてくれるか?」
「はーい、わっかりましたー」
不承不承の様子で席に戻っていった。
「お電話代わりましたナカガワです。え?ホントですか、あ、ありがとうございます、本人にもすぐに伝えます!はい、ありがとうございます!」
吉報だった。ゆっくり受話器を置くと、私からカシマのデスクに走っていた。
「カシマ!この前のコンペ、君のデザインに決まったぞ!」
カシマは驚いた顔で立ち上がった。
「え?マジっすか。えっと、どの案でした?」
「君が勝手に描いてきたC案だ」
そういえば、あれを通したことを伝えてなかった。
「ナカガワさん、あれも通してくれてたんですか?うわ、嬉しい、やだ泣きそう」
言いながらカシマの頬に涙が伝っている。
「カシマ、それ、じゃないか?」
「え?なに?」
「その涙」
「やだ、泣いてないっす、あっ」
カシマの涙目が大きく見開かれる。そんな目でこっちを見るなよ。
「自分がやってきたことが報われた、やってきてよかった、そのときの涙なんじゃないか?転職広告の涙は」
「あは、そうだ、うわーすごいタイミングで実感しちゃったわ」
今度は泣き顔に照れた笑いが加わる。
「ナカガワさん、あたし、いいデザイン描けそうです」
マキエに誘われてカラオケに行ったあの日から、少しだけ気分は晴れていた。これまで歌を聴きながら踊ったことのなかった私が、あの日はマキエが歌うのに合わせて夢中で踊っていた。気の置けない親友がいることがありがたかった。
あれから部屋で音楽を聴いていても、ついつい体を動かしてしまう。その度にあの日のことが思い出される。
でもなぁ。「ディ・ファントム」の曲、カラオケに入ってなかったなぁ。
音楽ユニット「ディ・ファントム」は知る人ぞ知るジャジーヒップホップのグループで、世の中的には認知度の低い。あまり音楽に詳しくない私がなんで知っているかというと、その、一度深夜のアニメでエンディングテーマをやっていたのを聴いたからだ。
もちろんその曲が大好きで、サブスクサービスで毎日リピートしていた。
なんてことを思いながら、カフェでマキエが来るのを待っていた。いつものことだが、マキエは遅刻していた。マチビトハキタラズ。
ふと店内のBGMがなじみのある音色に変わる。
え?うそ?「ディ・ファントム」じゃない?
思うより先に心が踊る。気づくと私は勢いよく立ち上がっていた。ガタッという椅子の音に店内の視線が集まる。店員さんが近寄ってきて、どうしましたか?と声をかけてきた。
「え、あ、その…」
なんでもないです、なんでもないです。心の中で唱えるが頭と口は気が動転している。
「この、この曲っ、じゃなくてBGMって何をどこから流れてるんですか?」
なに聞いてるんだよ、有線だよ、そんなん有線に決まってるじゃん。いや有線で流れてても嬉しいけど。
「あ、え、もしかしてディ・ファントム知ってるんですか?実はこれ、私が選曲したものをプレイリストにして流してるんですよ。なんか嬉しいなー、ありがとうございます」
わ、え、え、こんなニッチな部分で趣味が合う人に出会えるなんて。しかもたまたま待ち合わせに指定されたカフェで。心が躍り続けている。
この店員さん、見た目もさわやかな好青年だし、ちょっと運命めいたものを感じてしまう。
「あの、ディ・ファントムってすごくメロディがポップなんですよね。JAZZがベースなのにかわいいアレンジで…」
やば、立ったまま話し込んでる。でも止まらない。
「そうそう、また歌詞が日本語にこだわってるっていうのもカッコいいんスよね」
この時間がずっと続けばいいなどと、シンデレラのような気持ちになる。
しかし12時のベルは無情にも鳴り響く。ディ・ファントムの曲が終わると、轟音のヘビーメタルが店内に鳴り響いた。
わー、多彩な趣味をお持ちなんですね。
ガラスの靴は砕けて散った。