静かな場所とザワザワした場所と、どっちの方が集中できる?
この部屋はいわゆる閑静な住宅街にあって、日中、特にいまぐらいの午後の時間は無音と言っていいぐらい静かだ。在宅ワークを始めてそのことに気づいた。共働きのビジネスマン層が多いのだろう。
デザインの仕事はイラストやレイアウトがメインだから、音楽とかラジオとかの耳だけの情報はあっても邪魔にならない。私はむしろ適度に音楽が流れていた方が集中できる。描きたい絵によってジャンルを変えるのもオススメ。いまはサブスクでいくらでも新しい曲が聴けるしね。
でもね、いま私の部屋にはアナログレコードのプレイヤーがあるのです!わーい!
パートナーが最近レコードにハマってて、いつもこれで聴いてるの。オシャレでいいなーって思ってたんだ。勝手に聴いたら怒るかな?まあそん時はそん時。この前いい感じのJAZZの曲を聴いてたんだよね。
プレイヤーの周りでレコードを探していると、静寂を切り裂いてスマホが鳴り出した。
おぉわ、ビックリした。別に悪いことしてたわけじゃないけど。まあでも仕事はサボってるか。
着信は上司から。私の電話の折り返しか。出ると
「ああ、おつかれさま。さっき送ってもらったデータなんだけど…」
もう見てくださいましたか、シゴデキっすね。上司は修正箇所をいくつか指摘する。
んーま、合ってるとは思うんですけど、それってクライアントに見せてませんよね?一回私の案で見せてもらって、クライアントの意見もらってから修正じゃダメですか?
っていつも言いたくなる。一回私のイメージで勝負させてよって。でも上司だからなぁ。と思っていたら
「その感じで直したら送って。今もらったのも良かったから、合わせてA案B案でクライアントに投げるから。今日中にできる?」
「え?あ、あーす。いけまーす」
なんだ上司、シゴデキじゃん。
そのあと発掘したコルトレーンの名演集を聴きながら、上機嫌で仕事をしていたら、全然違うC案が出来ていた。やっぱJAZZだわ。
ゴゴイチで商談が入っていた。普段からやり取りのあるメーカーとの打ち合わせで、それほど緊張感のあるものじゃない。手帳とペンと、要らないとは思うが念のためノートPCも持っていこう。必要なものを手に取ってメーカーを出迎えに行った。
対面すると、担当者の他に普段見かけない女性が同行していた。担当者は新しい上司だという。
なんだよ、ダラダラ雑談できないじゃんか。
私は丁寧に挨拶をして名刺を交換する。
【クリエイティブ営業企画部チーフ】
「チーフって何長ですか?」
と喉元まで出かかったが飲み込んだ。その空気を読み取ったのか、担当者が補足する。
「ウチの会社では係長のクラスです」
「ああそうなんですね」愛想よく笑いながら答える。
私はいいけど、チーフの前で「ウチの会社」はいいのかな、担当者くん。
「ご足労いただきありがとうございます。先ほど雨が降っていたようですが、大丈夫でしたか?」
会議室に入り、座りながら世間話を始める。
「ええ、駅に着いた時には止んでいましたので、降られずに済みました」
チーフが答える。それは良かったです、と言いながら私は商談の流れを組み立てる。今日の議題は店頭イベントで販促をかける目玉商品の選定と企画内容だ。
話はスムーズに進み、結果的には決済権のあるチーフねえさんを連れてきた担当者くんのファインプレーで、割引率も限定数量もほぼ確定レベルまで決めることができた。
別れ際、エレベーターでお送りするときに、チーフねえさんが思い出したように振り返り、
「ああ、最後にひとつだけ」
右手人差し指を立てながら私に向かって言ってきた。
「ウチの商品で販促するなら、絶対に他社よりも安く出してくださいね。売上は保証しますよ」
あ、この人、杉下右京みたいな人だ。
でもそれ、会議室出るときにやってくれよ。エレベーター待たせちゃうじゃんか。
在宅ワークでフレックスタイムだから、仕事はいつ始めてもオッケー。だけど始まったら集中する。スマホで出勤ボタンを押したらそこからはお仕事モード。
午前中は一気に作業を進めた。デザインの仕事も今はPCでほぼ完結する。でも細かい部分にはこだわりたいから、根を詰めてリタッチをしていると時間を忘れてしまう。お昼前になんとか初稿を上げて、会社のクラウドにアップする。上司にメールを送って、念のため電話もしておく。
出ない。
そっか午前中は会議だ。ま、着信履歴があればアリバイは成立するので、気にせずお昼にしよう。んー、疲れたからコンビニで済ませよっかなー。
靴下を履くのも面倒で、つっかけを履いて家を出る。コンビニで適当にカップ麺と豆乳を買ってタッチ決済を済ませる。お湯も借りちゃおう。カップ麺を開けて熱湯を注いでいる時に、スマホを見ると、パートナーからLINEが入っていた。
「そっち雨降ってる?」
え?まさか。コンビニを出ると小雨ながらサラサラと確実な雨粒が見えた。
「もぉ〜、なんでこんな時間に!」
天気に時間は関係ない。濡れるのは気にせず、かと言って熱湯がこぼれぬように早足で帰宅して、すぐにベランダに向かう。二人分の一日分の洗濯物なんてすぐに取り込める。
ひと息着いたところでパートナーに「ありがとう」と連絡を入れた。
あ、お昼!
無情にもカップ麺はふやけてグズグズになっていた。
「もう!雨のばかぁ!」
セルフ増量した麺をすすりながら、またも天気に悪態を吐いた。すると、声が届いたのか、空はにわかに明るくなって、陽光がのぞきはじめた。
「あーあ、もっかい洗濯干さなきゃか」
暦は空気を読むことなく、時とともに進んでいく。まだ夏の空気を漂わせたまま、九月も終わりに近づいていた。今日は少し涼しく感じるが、昼には30℃に近くなるらしい。電車に揺られながら目をさまよわせていたら、トレインビジョンの天気予報を見てしまっていた。
暦にならって画面には栗や紅葉のイラストがあしらわれているが、果たしてもう栗は採れるのだろうか。
天気予報の画面が、いつの間にかTシャツ予報に変わっていて、埼玉のTシャツが弓道の的にされているのを見て、洗濯をかけて家を出たことを思い出した。
私は体をくねらせてバッグに手をつっこみ、リングの感触を認めると輪の中に中指を挿して引き上げた。顔認証のタイムラグを待ちながら、毎回指紋認証の復活を祈る時間は、この世で最も無駄な儀式のひとつだろう。
LINEを開き、もう起きただろうかと思いつつ同居人にメッセージを打った。10秒待ったが既読にはならない。
駅に着くと人の流れに巻き込まれながら電車から吐き出される。毎度のことだが、いっそ足を浮かせてやろうかと思うくらい圧を感じる。
車両の形をした容器に粘性のあるゼリー状の物質を流し込んで、握りつぶすようにぎゅうううっとしたら、出入り口からゼリーがびゅるびゅるるるぅって出てくるような、そんなゼリーの中に私はいる。
よし、今日はゼリーを買って帰ろう。
そう決意して、駅の階段を上っていった。
空は、いつもそこにあった。部屋の窓を開けると、自宅のベランダと隣の家の屋根が見える。電線は見えないが、物干し竿が視界に入る。
そうやって幾つかの障害物に遮られて複雑な形に切り取られた空がそこにあった。
先日まで群れをなして行進していた奥行きと陰影を持った入道雲はようやく長い栄光の季節を過ぎて、勢力を失ったようだ。今はうっすらと漂う羽衣のような雲があるばかりだ。
「洗濯物干さなきゃ」
何もないベランダを見てひとりごちた。
寝転がって逆さに見ていた景色を戻し、一瞬目に入った部屋の散らかりは見なかったことにして起き上がった。
思えば窓を開けて外の景色を眺めるなんて、しばらくしてなかった気がする。起きたときには30℃近い暑さの日々が続いて、家にいる間はずっと窓を閉めてエアコンを点けていた。
洗面所に行き洗濯機を開けると、すでに洗濯は終わっていた。これから洗濯すると思ったでしょ。朝は割と働き者なのだ。ワタシ、エライ(はくしゅ)
窓を開けてベランダへ出る。働き方改革のおかげで会社もゆるくなり、在宅ワークが定着した。毎日洗濯ができれば二人分の洗濯物なんてたいした量じゃない。5分と経たずに干し終えて部屋に戻ると、スマホにLINEが入っている。
「おはよう、ゆっくり眠れた?洗濯物、忘れないでね」
あー、えーっと、忘れてた。
ワタシノパートナーハハタラキモノナノダ。
エライエライ(はくしゅ)。